[#表紙(表紙.jpg)] 待っている男 阿刀田 高 目 次  待っている男  朱《あか》いドレス  紙の女  俺《おれ》と同じ男  西瓜《すいか》流し  鈍色《にびいろ》の眼  鳥  藁《わら》の人形  ありふれた誘拐《ゆうかい》 [#改ページ]   待っている男  駅前のロータリイを見おろす喫茶店《きつさてん》。テーブルにはタバコの焼け痕《あと》がまばらに焦《こ》げつき椅子《いす》の背も薄汚れている。  いま店内に流れているメロディはラテン音楽の�アドロ�。熱く、もの憂《う》い恋の歌。  窓越しにロータリイの植込《うえこ》みが見え、その中央に背の低い時計台がある。それを囲んでだれかを待つ人たち……。時刻は十一時十四分過ぎ。  窓ぎわの席で、Tシャツ姿《すがた》の男がさっきからしきりに外の様子を凝視《ぎようし》していたが、人の気配《けはい》に気づいてふいと顔をあげた。  背広を着た男が立っていた。  この席ですか? あいてますよ。どうぞ。  相席《あいせき》はおたがいさまだからね。ここはまったく特等席だよ。窓から覗《のぞ》いていれば時計台に近づいて来る人がひとめでわかるし、駅の改札口だってよく見える。  なにも日射《ひざ》しの暑い中でじーっと待っていることはないよ。  あんたも十一時前から、あの植込みのところで待っていたでしょう。立ったり坐《すわ》ったりタバコをふかしたり……あははは。ずっと見てたんですよ。  待ち人、来たらず、そうでしょ。  だいぶいらいらしていたね。あの植込みのところ藪蚊《やぶか》が多かったでしょ。私もしばらくあそこに立っていたんだ。昼間っから縞《しま》の股引《ももひき》をはいた奴《やつ》が出て来て食いつきよるから。あいつは痒《かゆ》いね。血を吸うのは雌《めす》の蚊だけなんだってね、卵を産むために……。妊産婦《にんさんぷ》の栄養補給みたいなものなんだね、あれは。あんたも藪蚊に食われたらしいね。蚊って奴は針《はり》をあわてて抜くときに痒いお汁《つゆ》を出すらしい。だから最後までたっぷり吸わせてやれば痒くならない……。  でも、おもしろいね、ここから見ていると。  この時計台ときたら最近すっかり待ち合せの名所になってしまって……。頃《ころ》あいもいいやね。日曜日の午前十一時。これで、いま二十人も待っているのかねえ。どうせ待ち合せるなら涼《すず》しい喫茶店のほうがいいと思うけど、喫茶店の名前って案外覚えていないからね。電話口で思い出せないんだ。  それに……両方ともほとんど約束時間通りに現われたらコーヒー代が無駄《むだ》になる。若い人はそんなことも考えるんじゃないのかな。  あ、水玉のワンピースの娘さん、待ち人がやって来たね。めでたし、めでたし。  男は十九分の遅刻《ちこく》か。  三島由紀夫が書いていますよね。  二十分以上待たされている女がいて、それでもなおその女が立ち去らないときは、彼女は待っている男とすでに肉体関係がある……。逆に二十分以上待ち続けている男は、これからやって来る女とまだ肉体関係がない、って……。  そんなものかねえ。いちがいには言えないと思うけど。  あの水玉さんはどうなのかな、男の腕《うで》にすがりついてたけど。  あんたも十一時に約束したんでしょ。相手は女。そりゃわかります。すっかり顔に書いてある。いま丁度二十分を越えたところだから……あははは、どうです? 当ってますか、三島由紀夫の説は。  えっ、三島由紀夫を知らんのですか。驚《おどろ》いたなあ。いくつです? 三十一歳。三島が死んで何年になるのかな。  私ですか。四十一ですよ。スーパーの店員です。今日は休みでね。田舎《いなか》の商業学校を出ただけだけど、子どもの頃から本を読むのが好きでね。で、くだらんこと少し知ってんですよ。  えっ? ああ、そうか。なるほど。私も二十分以上待っている計算になりますなあ。でも、相手は寝たこともないって女じゃない。よく知っている女。黒子《ほくろ》の位置まで知ってますわ。  こうして見ていると、やっぱり女が待たせているほうが多いね。さんざん待たせておきながら、十メートルくらいの距離《きより》になってあわてて走り出す。おかしいよね。 「待ったあ。ごめんなさい」  男は女の顔を見たうれしさで、つい許しちゃう。 「それほどのこともない。僕も今来たばかりだ」なんて……。  女の中には最初から来ないつもりで約束するのがいるからひどいね。  芥川龍之介は知っているでしょう。  あ、知っている。いくらなんでもね。 �尾生《びせい》の信《しん》�って小説があってね。もとは中国の話なんだろうけど。  あれ、いつ頃の話なのかな。漢《かん》くらいなのかな。  とにかく尾生って名前の男がいたんだ。そいつが、女と約束をして……。 「橋の下で待ってて。あとから行くから。いい、橋の下よ。絶対に他所《よそ》に行かずに待っててね」  てなこと言われたんじゃないのかな。  いくら待っても女はやって来ない。そのうちに川の水量《みずかさ》がどんどん増して来て、膝《ひざ》が濡《ぬ》れ、腰まで水が来て……それでも女は現われない。  ——約束の場所を動いちゃいけないんだ——  とうとう水が背丈《せたけ》を越え、尾生は溺《おぼ》れ死んでしまった。それでも女はやって来なかった。  辞書を引けば書いてありますよ。�尾生の信→愚かなまで忠実に約束を守ること�って……。かわいそうに。死んだうえに馬鹿《ばか》者の代表にされちまって……。  で、芥川龍之介がちょっと弁護しているんだよね。あの人も臍曲《へそま》がりだから。  だれも尾生を笑うことなんかできない。ゆっくり考えてみれば、人間はだれだって当てにならないものを心に描いて、じっと死ぬまで待ち続けているんじゃあるまいか……って。  小説家だけあって、うまいこと言うよ。  そんなこと、たしかにあるかもしれんなあ。  でも尾生は阿呆《あほう》だったから死んだんじゃなくって、意地を張り続けたんだろうね。  あんまり長く待たされると、  ——もし俺《おれ》がここでなんかの事故で死んだら、あの女、どう思うだろ。�私が約束を守らなかったばっかりに……�ってしばらく悔《くや》むだろうな——  なんて思ったりしてね。  で、いっそのこと、ここで死んであの女に一生|後悔《こうかい》させてやるか——馬鹿らしい想像だけど、何本目かのタバコを喫《す》いながらそんなこと考えたりするでしょ。  待っているあいだって、いろんなこと考えるからね。  ついでにもう一つ�ゴドーを待ちながら�って芝居《しばい》もあったなあ……たしか。  ベケットって言ったかなあ。ノーベル賞をもらった人じゃないのかな。  サラリーマンになったばかりの頃《ころ》、素人《しろうと》劇団の切符《きつぷ》を買わされてサ、それで見たことがあるんだ。わりと有名な芝居じゃないの?  町の浮浪者《ふろうしや》たちが、ゴドーという男を待っているんだ。わけもなく、ただ待っている。ゴドーがどういう奴なのか。ゴドーが来ると、どうなるのか、だれもわからない。それなのに、みんなで待っている。  結局ゴドーはやって来ないし、ゴドーが何者なのか最後までわからない。  ナンジャラホイ、こりゃ、と思いましたよ、こっちも若かったから。  でも、今はすこーしわかるな。  さっきの芥川の小説と似ているんじゃないのかいな。みんな心の中がスカスカしてさびしいから、だれかを待ってるんだ。来もしないものを待っている。なにかしら待たずにはいられない。  まあ、あんたはここでなんの当てもなく待っているわけじゃないでしょうけど……。  遅《おそ》いですね、あんたの待ち人。  ああ、なるほど。十一時か、十一時半か、もしかしたら十二時過ぎになるかもしれないって約束だったんですか。それなら仕方がない。  私の待ち人も来ませんなあ。  おたがいに辛抱《しんぼう》強く待つよりほかにないのかな。  この喫茶店のコーヒーは、わりとうまいんじゃないですか。もう一ぱいどうです? 私がご馳走《ちそう》してあげましょうか。まだしばらく待つことになりそうだから……。  もう十二時ですか。  女には……男だって同じかもしれないけど……�一時間も遅れたんだからもう相手は待っていないだろう。無駄《むだ》になるとつまらないから行くのよそう�って勝手に決めちゃう人がいますね。  あれはルール違反だな。  相手は何時間待っているかわからない。  何時間遅れようと、待たせたほうはとにかく現場まで行ってみるのがエチケットでしょうが。無駄足になってもそれは仕方がない。相手は意外に辛抱強く待っているかもしれないし、伝言板《でんごんばん》かなにかに指示が書いてあるかもしれない。二、三時間くらい待つ人って案外いるらしいからね。  さっきからずーっと時計台のとこを眺《なが》めているけど、一時間くらい待っている人は、ざらにいるね。あの茶色の背広の男も、こっちの包み紙を持った女も……。  こうして見ていると、なんだか人生の切り口みたいなものが見えて来るねえ……。  あの中には、ずいぶんせつない気持ちで待っている人もいるんじゃないのかな。  知ってますか。人は一生に三回だけ真剣に待つことがあるそうですよ。  私の場合はどれが一回目かな。一番最初は……そう、あのときだな。  商業高校を出て、二年ほど会社に勤《つと》めていたことがあるんですよ。その頃に知り合った女がいてね。一つ年上で、ちゃんとした家の娘で……いい線まで行ったと思ってたんだがなあ。公園なんかに連れだって行ってちょいとキスをするくらい。彼女のほうだって満更《まんざら》わるくないって感じだったし……。  男と女のあいだには、  ——今日は節目《ふしめ》だ——  って、そう感じるようなときがあるもんでしょ。  知り合って、少しずつ親しくなって……いよいよこのへんで本物の男女の関係にならなきゃいけないって、そう思うときがね。  油壷《あぶらつぼ》、知ってるでしょ。三浦《みうら》半島の……。あそこまで二人で行くつもりだった。あわよくばって、泊《と》まる旅館も予約しておいた。  朝の十時に品川駅で会う約束をして、十五分も前から待っていたけど彼女は現われない。  十五分過ぎ、二十分過ぎ……電車の時間表を見ながら待っていたけど、いっこうにやって来ない。  十時四十分の特急には乗れるだろう。  十一時の電車には、二人で仲よく腰かけているにちがいない。  十一時二十分……いや、十一時四十分までにはいくらなんでも来るんじゃないかな。  それとも待ち合せ場所をまちがえたかな。  そんなはずはない。しっかりと品川駅の、京浜《けいひん》国道のほうの改札口と約束したはずだ。  十二時を過ぎ、一時が近づき、とうとうたまりかねて彼女の家に電話をかけてみた。  それまでは電話をかけるのが怖《こわ》かったんだよね。  一生|懸命《けんめい》待っていれば、その願いが天に通じて彼女が現われる——そんな気がして仕方なかったってわけ。わかるでしょ、この感じ……。  そしたら、彼女は家にいなくてね。 「朋子《ともこ》ですか? 今しがた近所のお友だちと一緒《いつしよ》に出かけましたよ。映画に行くとか言ってましたけど」  母親のまのびのした声が受話器から聞こえて来てね。電話口のむこうとこちらでは、まるで緊迫《きんぱく》感がちがっている……。  ——やっぱりそうか——  目まいがしたなあ。急に貧血が襲《おそ》って来て電話ボックスで何度も深呼吸《しんこきゆう》をしたね。  ここ一週間くらい、一緒《いつしよ》に油壷へ行ったらああも言おう、こうもしよう、あれこれ思っていたからね。思案がガラガラと崩《くず》れちゃって……。  ——今ごろは油壷の水族館あたりを散歩しているはずじゃなかったのか——  電話を置いたあともしばらくは待ち合せの場所を離れられなかった。  ——母親に嘘《うそ》をついたのかもしれない——  いくらなんでも�ボーイ・フレンドと二人で海へ行って来ます�とは言いにくかろう。 「ごめんなさい。三時間も待たせちゃって」  人|混《ご》みの中から弾《はず》んだ声が響いて彼女が現われるかもしれない、なんて思ってね。  二時五分まで待って、近所のレストランへ食事をしに行ったよ。  食後にもう一度、未練《みれん》たっぷりに改札口のあたりへ戻《もど》ってみたけど、彼女がいるはずもないよな。ふと思い出して伝言板を確かめてみたが、関係のないメッセージがゴチャゴチャ書いてあるだけだった。 「気が進まなかったの。ごめんなさい。待ってた?」  三日後に彼女から聞いた釈明《しやくめい》は、それだけだったなあ。  それから二、三か月たって彼女は結婚したよ。どういう相手か知らん。  ——あのとき二人で油壷に行っていたら——  何度もそう思ったね。  しかし、女のほうに、もともとその気がなかったのなら、初めから可能性のない想像だったわけよ。馬鹿らしい。  三島がどうの、芥川がどうのって、やたら待たされる話に興味があるのは、このときの経験が尾を引いているせいかもしれんね。  しかし、あんたのガール・フレンドも来ないねえ。改札口に女の姿が見えるたびに首を伸ばしているけど……。  ああ。そう。「きっと行くから一時間でも二時間でも待っていてほしい」って、そういう約束なんですか。  なんだかいい話みたいだなあ。  秘密の恋? ね?  相手は結婚している人じゃないのかな。だから日曜日に気安く家を出て来るわけにはいかない。「でも、なんとか口実《こうじつ》を見つけて、きっと会いに行きますから……」彼女がそう言ったんでしょ。ちがうかな。図星《ずぼし》でしょう。  ええ、わかるんですよ。  私も他人《ひと》の奥さんと仲よくしたことがあるからねえ。  あんたには、ちょっと厭《いや》な話になるかもしれんけど、二度目にたっぷりと待たされたのが、それだったな。  自分で言うのもおかしいけど、きれいな人だったよ。色が白くて、切れ長の眼で……。少し斜視《しやし》だったけど、それがかえってチャーミングなんだよなあ。普段《ふだん》はただおとなしいだけの女なんだけれどな、気持ちが高ぶり始めると、どんどん表情がきれいになる。  あんたは若いから知らないかもしれないけど……ベッドの中で急にきれいになる女って、いるもんだね。  今までにあれほど惚《ほ》れた女はいないね。一番好きな女だった。この女と一緒に暮らせるなら、あとはなにがどうなってもかまわない、そう思っていたよ。  知り合ったきっかけはどうってこともない。彼女は上役《うわやく》の奥さんでね。亭主《ていしゆ》は酒乱《しゆらん》で、奥さんをブン殴《なぐ》ったりする。たまらんよな、そんな話をシクシク泣きながら聞かされると……。  その頃? うん、私は教育機器を売る会社に勤《つと》めていて、わりと順調だったんだよ。 「もう、あんたとは別れられない」 「ええ……」 「どこかへ逃げて二人で暮らそう」 「はい……」  女は顔をあげてキッとした表情になって……それから頷《うなず》くように答えたよ。声は低くて小さかったけど、たしかに本心の籠《こも》っている顔つきだった。  私は早々と会社を罷《や》めちゃってね。奥さんを盗《ぬす》んだ人の下じゃ働けないよ。惜《お》しい職場だったけど、仕方がない。  手まわしよく大阪にアパートを借りて、受け入れ態勢《たいせい》を整えたんだ。 「明日十時過ぎに。東京駅の丸《まる》の内《うち》北口で……いいですね」 「はい」  手短かに電話で約束をした。  世間にない話じゃないけれど、いざ本当に自分でやるとなると、ひどく重苦しい気分のものだね、あれは。他人の奥さんと駆《か》け落《お》ちをするんだから……。  仕事も捨ててしまった。東京にもしばらくは戻れないかもしれない。知らない土地でうまくやっていけるだろうか。自分のことはともかく、問題は彼女のほう……。  亭主は怒るだろうな。追っかけて来るかな。世間はそうたやすく許してくれないかもしれない。彼女はいろんな重圧に堪《た》えられるかどうか……。  できるだけ厭《いや》なことは考えずに、二人だけで暮らす日のことばっかり考えていたよ、駅で待ちながら。  武者《むしや》ぶるいをしてみたり、あくびを噛《か》み殺したり……。あくびってものは、気が弛《ゆる》んだときにばっかり出るものじゃないね。緊張すると、かえってよく出るよ。あんたも大分さっきからしている。私? 私もさっきから何回あくびをしたかな。あのときの気分は今でもよく覚えているよ。切羽詰《せつぱつ》まったような、明日からものすごい幸福が始まるような、不思議な気分だったね。腰が宙に浮いてるような感じでね。  駅ってところはどこでもそうだけど、東京駅の時計は特に大きいやね。  時計が十時を廻《まわ》り始めても、女の姿はチラッとも現われない。多分タクシーで乗りつけるだろうと予測してそっちのほうへ首を伸ばしてみたけど、タクシーは、滅多《めつた》に女一人の客を吐《は》き出さないし、たまに吐き出しても彼女じゃない。  もしかしたら電車で来るかな。  改札のあたりで手を振っているかもしれないし……そう考えて、そっちにも目を配ったが、そんな女もいない。  ——待ち合せ場所をまちがえているのかな——  だれもが思うようなことを思って丸の内口をあちこち走りまわったが、どこにもいやしない。八重洲《やえす》口のほうへも行ってみたよ。  十一時を過ぎる頃には、もう疲れてしまってねえ。  なぜなんだ? どうして来ないんだ?  そればっかり考えて大時計の針を見ていたよ。  一時過ぎまで待っていたな。馬鹿だねえ。来る覚悟《かくご》があるんなら、そう遅《おく》れずに現われるよ。女にとっても大事なことだもん。約束の時間を大きく過ぎても現われないのは、来る気がなかったってことだよ。  端《はた》から見てたら、さぞ滑稽《こつけい》だったろうね。本人は無我《むが》夢中で、周囲のことにまで気がまわらないけど、脇《わき》で見ているとすぐわかるね。時間がたつにつれて苛立《いらだ》っていくのが……。あいつ、だいぶ痛めつけられてるな、って。  もちろん大ショックだった。  かならず来ると信じていたからなあ。こっちはなにもかも捨てる覚悟だったんだし。  彼女は最後の土壇場《どたんば》で決心がつかなかったんだな。  ずっとあとになってそのことがわかったよ。手紙が来てね。多分そうだろうと想像していたけど……。  でも、こっちは一応命がけの恋のつもりだったからねえ……。あははは、べつにそこで私が死んだわけじゃないんだから、命がけってのは少し理屈にあわないけど……。  自暴自棄《じぼうじき》になっちまってね。  ——ここで目茶苦茶にならなきゃ、男のメンツが立たない——  そんな気分だね。命がけの証拠を立てるために目茶苦茶になった。  酒は飲むわ、ギャンブルはやるわ。定職なんかとても持つ気になれない。横浜に流れて行ってね、なにか仕事があれば、それをやる。金ができればもう働かない。  もともとそんな生活に少し憧《あこが》れていたところもあったのかな。破滅《はめつ》型とかなんとか言うんでしょ? 小説読んで、文学かぶれにもなっていたし。  犬みたいな生活を三年くらい続けて、健康を害しちゃって。  ——こんなこと、長くやってちゃいかんぞ——  そう思い始めた頃、また新しい女に会っちゃったんだな。  器量《きりよう》はわるくなかったけど、いい女じゃなかった。見栄《みえ》っぱりで、嘘《うそ》つきで……。「昔《むかし》は、いいところのお嬢様だったのよ」なんて言ってたけど、あやしいもんだね。スッカラカンのくせに贅沢《ぜいたく》だけはしたがる。クスリもやってたんじゃないのかなあ、あの女。 「ちょっとした仕事があるから、手伝ってくれない?」  最初は引越しかなんかの手伝いだと思ったけど……そうじゃなかったな。大違いよ。だけどあのときは、女に惚《ほ》れてたから、つい、つい、馬鹿なことをやっちまって……。  だんだん深みにはまって……ひどいもんだよなあ。あの頃のことは思い出したくもないね。たまに夢になんか見ると、背中にビッショリ脂汗《あぶらあせ》をかいてしまう。うなされて女房《にようぼう》が心配して起こしてくれるよ。  なにをやったんだって?  あははは、くわしくは話せないよ。ヤバイ仕事だね。  女の手も、私の手も、おんなじ泥《どろ》でベトベトに汚れているから、おたがいに相手を裏切るわけにはいかない。  三か月ほど一緒にいて……思いがけない大金が入ったとき、ここが潮時《しおどき》だと思ったんだ。 「もうやめようぜ。別れよう。おたがいにべつべつになって暮らして、この先どこかで出会っても知らん顔をしよう」 「いいわよ」  女には新しい男ができていたらしい。  金を折半《せつぱん》にして、きれいサッパリと別れたんだ。  私も三十代のなかばになっていたしねえ……。六年前くらいかな……。  ずいぶん昔のことみたいな気がするけど、そんなにはたっちゃいないんだね。  東京に戻って、新しく開店したスーパーに勤めて……店の名前を言えば、きっと知っている店だよ。ここ四、五年で急に成長したスーパーだから。  初めは店員を集めるのも大変で、それで私みたいな風来坊《ふうらいぼう》でも雇《やと》ってくれたんだろうね。  自堕落《じだらく》な生活とはきっぱり縁を切るつもりだったし、仕事もおもしろかった。企業がどんどん伸びていくときってのは、活気があっていいよね。  あ、改札のところに来た女? いや、私の知人じゃない。あんたは? やっぱり駄目? 来ないねえ、本当に。  まあ、スーパーに勤めてからはずっと順調な生活を続けてますよ。  結婚ですか?。  三年前にしました。平凡な見合い結婚。どうってことない女だけど、性格の穏《おだ》やかな、いい奴でね。子どもも生まれたしね……。  いえ、今日待ち合せているのは、女房じゃない。  わかるでしょうが。女房は亭主をこんなに長く待たしやしません。亭主も待ってはいないしね。  昔から、�一|盗《とう》二|婢《ひ》三|妾《しよう》……�なんて言うけど、おもしろいもんだねえ。女房はたしかランキングの五番目で、一番ビリ。その女房がだれかさんに盗まれると、たちまち一位になっちまうんだから。  あのグリーンのスーツの女、そう、時計台のすぐ裏手に立っている人、あの女も人妻だね。  服装から見て、そんな感じがする。  あの女もずいぶん切羽詰《せつぱつ》まっている様子だなあ。どんな男が現われるか。  彼女、顔が引きつれてんじゃないのかな。よく見えないけど、そんな感じだな。  人妻があれだけ入れ込んでいると、危ない、危ない。ろくなことが起きないね。  殺人とか心中とか、大事件はみんな新聞やテレビの中にだけあって、自分とは関係ないって思ってますよね、たいていの人は。  想像くらいはするだろうけど、本当のこととしては考えない。  でも実際に起きてしまえば、百パーセント現実ですよ。遠い国のお伽話《とぎばなし》ってわけにはいかない。  あなた、人を殺したいと思ったこと……まあ、ないでしょうね。真面目《まじめ》そうだもんね。いや、真面目そうな人のほうが危ないのか。  一生のうちに本気で�殺したい�って思うことがだれにだって一度や二度あるんじゃないのかな、本当、だれにでも……。  だけど、たいていは思うだけで実行はしませんよ。自分が捕《つか》まってしまったら、つまらないもん。  でも、そんなとき偶然《ぐうぜん》うまい方法にぶつかったら、どうします?  この方法なら憎い相手を多分殺せるだろう。自分が捕まる可能性はまずない。そんな方法があったら実行する人も案外いるんじゃないのかな。  たとえば、その女は毎朝アイス・コーヒーを飲む。男は夜のうちにこっそり女の部屋《へや》に忍《しの》び込んで、冷蔵庫の氷の中に青酸剤《せいさんざい》でも入れておく。氷は女が翌朝使うぶんだけ、ほんの二、三個にしておいてね。  男と女の関係が、ほかのだれにも知られていなきゃ、たったこれだけの細工《さいく》でうまく殺せるわけでしょ? ああ、青酸カリを手に入れるのがむつかしいか……。  睡眠《すいみん》薬を常用している女なら、ちょっと多めに飲んでもらって、熟睡《じゆくすい》したところでガス栓《せん》を開いておくとか……。細工はいろいろありますよ。  うふふふ、ひどく物騒《ぶつそう》な話をしましたね。  あ、来ましたか? ワインカラーのスーツの人?  なるほど。改札口から小走りに寄って来た……。あの人が、あなたの待っていた女性ですか。  それはよかった。  わかります。想像していた通りだね。  十二時四十一分。二時間近く待った勘定《かんじよう》になりますね。  さあ、急げ、急げ。  同じテーブルで長いこと向かいあって……変な親父《おやじ》だと思っていたんでしょう。口の中でときどきブツブツと独《ひと》り言《ごと》なんか言ったりして。ついつい頭の中で考えていたことが言葉《ことば》になって飛び出しちゃうんですよ。  さみしいもんだね、人間なんて。  もし勝手《かつて》気ままにあんたにお話ができる人なら、こうも話しただろうって、さっきからずーっと頭の中にあれこれと思い浮かべていたんですよ。なにか考えずにいられない……。私も気を紛《まぎ》らわしたかったしね。  でも、ベラベラあんたに話しかけたら、頭が変だと思われちまうもんね。いきなり喫茶店で会った人に打明《うちあ》け話をするわけにもいかない。  しかし、よかった。あんた、体の動かしかたまで元気になったんじゃない。笑いが止まらんのでしょう。ここから見ててもわかるよ。  私の予測は図星だったね。女は二つ三つ年上。やっぱり人妻だね。 「ごめんなさい、すっかりお待たせしちゃって」 「いや、いいんだ。あそこの喫茶店の窓辺のとこでコーヒー飲んで待ってたから」  そんな話し声が聞こえるみたいだね。  おや、あんたはチョイと振り返ってこっちを見たね。  ——変な親父が前にすわっていたな——  いまチラッと頭の中にそんなことが映ったね。女と肩を寄せあって……これからどこへ行くんです? うらやましいね。  さてと……時計台のまわりには、もう長く待っている人はいませんな。グリーンのスーツの奥さんにも待ち人がやって来たようだし。  私の待ち人だけが依然《いぜん》として現われない……。  人は一生に三回だけ真剣に待つことがあるそうだけど……。  一番最初のときには油壷へ行くのをすっぽかされ、二度目には駆《か》け落《お》ちをやりそこない、今日も来そうもない……待ち人はどうやら私の前には現われない仕組みになっているらしい。  実はだれにも打ち明けられない秘密が一つあるんですよ。  横浜で別れたあの女が……一緒にヤバイ仕事をやった女が、ほんの一か月ほど前にヒョッコリ現われて……ええ、前よりももっとひどい様子で……。 「どこかで会っても知らん顔をする約束だったじゃないか」 「そうはいかないわ。あんた一人うまくやっちゃって。かわいい奥さんとシコシコ暮らしているらしいじゃない。坊やなんかもできてさア」 「…………」 「あたし、お金がないの。困ってるのよ。このままじゃ殺されちゃいそう。少しくらい融通《ゆうずう》してくれたってバチ当たらないんじゃない? 昔のこと、みんなバラしちゃおうか。横浜で、泥坊《どろぼう》に入って……あんた、人まで殺してんだからね。あたしは平気よ。今より悪いことないもん。仲よく刑務所《けいむしよ》へ行きましょうよ」 「わかった。なんとか融通する」  今日の午前十一時にそこの時計台の前で会う約束をしてね。  お金は一応用意して来ましたよ。  ——今、来るか、今、来るか——  真実胸をドキドキさせ脂汗《あぶらあせ》を流してずっと待ち続けていたんですよ。  もう十二時五十八分……。  生きているものなら、かならず来るはずだからね。来ないのはどういうことか。  きっと私の細工《さいく》がうまくいったんでしょう。昨夜、あいつのアパートに忍《しの》び込んで、冷蔵庫の氷にちょっとお薬を入れて……。  待ち人、来たらず。さて、私もボツボツ帰るとしましょうか。 [#改ページ]   朱《あか》いドレス 「せっかくのお休みだったのに……」  美沙子《みさこ》は苛立《いらだ》たしい気持ちで住宅地の舗道《ほどう》をバス通りのほうへ急いでいた。  時刻は夜の九時を少し過ぎている。早く家へ帰ってマッサージを頼み、水母《くらげ》のようになってグッスリと眠りたかった。でもこれから帰ったのでは、いつも頼んでいる按摩《あんま》さんの予約が取れるかしら。厭《いや》だわ。  結婚している友だちが三鷹《みたか》の奥に新居《しんきよ》を持った。ぜひ遊びに来てほしいと言う。  あんまりしつこく誘うものだから、ついその気になって訪《たず》ねてみた。行ってみれば小さなプレハブ住宅に、似たような顔の夫婦がチマチマと暮らしているだけだった。  ——夫婦というのは、どうしてみんな顔つきや仕ぐさが似てしまうのだろう——  と美沙子は思う。  そう思いながら美沙子は瀬川《せがわ》のことを考えた。瀬川の妻には会ったことがない。だから二人が似た顔をしているかどうかわからない。できれば瀬川の妻にはずっと会わずにすませたいものだ……。  瀬川は十日ほど前に�カトレア�に電話を寄こして、 「ちょっと急用ができて、一、二週間会えないかもしれない」  と言った。なにかを押し隠《かく》しているような声だった。 �カトレア�は、美沙子が勤める銀座のクラブである。  それっきりなんの連絡《れんらく》もないけれど、美沙子はさほど心配していない。  自分に自信があるから。美沙子は瀬川の妻よりずっと若いし多分きれいだろう。瀬川は美沙子のことをとても気に入っているし……奥さんにもほかの女にも負けるはずがない。  だから十日くらい瀬川が姿を見せなくたって、それほど不安はない。待つことには慣《な》れている。 「でも……今夜あたり来るかもしれない」  こう思うと、余計にこんな夜道をウロウロしているのが腹立たしくなった。  バス通りから少し離れた住宅街は、日曜日のせいもあってあまり人通りがない。道の両側にブロック塀《べい》や生《い》け垣《がき》の家が並び、窓から黄ばんだ光が漏《も》れている。道端に犬がうろつき、どこからか麻雀《マージヤン》の牌《パイ》をかき混《ま》ぜる音が聞こえた。  気がつくと目の前にななめに進む道があって、バス通りに出るにはこのほうが近道のような気がした。  いや、はっきりとそう考えたわけではなく、急にその道に入ってみたくなった。  両角を低い生け垣に挟《はさ》まれた、黒い道の入口が、 「さあ、どうぞ、どうぞ」  と、無言の合図《あいず》を送って寄こすみたいだ。  美沙子はとっさに足の角度を変えて、見知らぬ道に踏み込んだ。  ほんの二、三十メートルも行くと、黒い家並みのあいだにポッカリとくり抜いた光の束があって、小さな洋裁店が店をあけていた。  ——こんなところに店を開いて……商売になるのかしら——  こう思って通り過ぎようとすると、ウインドウの中の赤いスーツが美沙子の眼を捕《と》らえた。  美沙子は足を止め、見るともなく振り返った。 「わるくない……」  そのスーツはオレンジ色を帯《お》びた、燃えるような朱色《ヴアーミリオン》で、きっと織糸《おりいと》の中に何十分の一かの黒を使っているのだろう。そのために色調がしっとりと落ち着いて、とてもシックな感じになっている。襟《えり》のカットも四角くてモダンなラインだし、ところどころにあしらった黒糸のステッチも小粋《こいき》である。  マネキン人形は、前ポケットに白いカードを差し込み、そこには9と三つの0が並んでいた。  青山や六本木《ろつぽんぎ》の裏通りならともかく、こんなところに気に入りのスーツがあるはずがない。 「あたし、どうかしているんだわ」  美沙子は道を急ごうとしたが、足がどうしても前へ進まない。  ヴァーミリオン、ヴァーミリオン、ヴァーミリオン……。  九千円、九千円、九千円……。  背後で赤いスーツがしきりに秋波《しゆうは》を送って、 「あなたの服です。あなたの服です」  と叫んでいる。  美沙子は急に踵《きびす》を返すと、洋裁店のドアを押しあけた。 「今晩は……」  案の定《じよう》、店の中は薄ぎたない仕事場で、よく見るとマネキン人形は上塗《うわぬ》りも剥《は》げ落ちて、やけどの跡のようだ。 「はい」  奥から顔の青白い、貧相《ひんそう》な女が現われた。どこかで見たような顔だが、この手の顔はどこにでもある人相だ。 「ウインドウの赤い服だけど……着てみていいかしら」 「どうぞ」  女は抑揚《よくよう》のない声で言って人形の衣裳《いしよう》を脱《ぬ》がせにかかった。 「それ、生地《きじ》はなーに?」 「化繊《かせん》です」 「クリーニングしても大丈夫?」 「地伸《じの》しがしてありますから」 「おたくで仕立てたものなのね」 「はい」  それで九千円とは少し安過ぎる。一ケタ間違ったのではないか……とも思ったが、そんなに高価な服をこんな店で作るはずがない。 「九千円?」 「はい」 「わりと安いじゃない。どうして?」 「…………」  女はそれには答えず、 「こちらでどうぞ」  と、衝立《ついた》てのかげを手で差し示した。  そこには鏡が張ってあって、試着室のつもりらしい。  このスーツはどこかに欠陥《けつかん》があるにちがいない。そうでもなければ、これだけの品物をこんな値段《ねだん》で売るはずがない。  しかし美沙子は眼に見えない欠点なら大目に見るつもりだった。  美沙子の勤《つと》める�カトレア�では、一月に一回�新調の日�というのがあって、この日には洋服でも和服でもホステスはかならず新しいものを着て行かなければならない。  その日が迫っていた。  店で着る衣裳は、そう何度も何度も同じものを着るわけにはいかない。よしんば七、八回着て、そのあと縮《ちぢ》もうが色が褪《あ》せようが、九千円ならばけっして損をしたことにはならない。  問題はむしろ実際に着てみたときの感じなのだが……これがまた奇妙《きみよう》にピッタリと美沙子の体にあった。 「どうかしら」 「よく似合います」  女は紙のように白く、無表情に言った。  店の奥には家族が住んでいるのだろうが、ひっそりとして声がない。 「そうねえ」  美沙子は鏡に、うしろ姿《すがた》、右横、左横と注意深く映してシルエットを確かめてみた。やわらかい曲線がゆったりと流れて、姿見の中は大きな炎《ほのお》が燃えているみたい。  生地《きじ》は厚手のわりに思いのほか軽く、肩に抵抗感がない。  鏡の前でもう一度正面のポーズを取り、 「じゃあ……いただくわ」 「はい」  女はまるで最初からこうなることを確信していたみたいである。  白い洋服箱を取り出し、その中にスーツを丁寧《ていねい》にたたんで収めると、今度は無造作《むぞうさ》に紐《ひも》で縛《しば》って突き出した。 「はい、これ、九千円ね」 「ありがとうございます」  洋服箱を小脇《こわき》に抱《かか》えて店を出ると、外は相変《あいか》わらずもの静かな家並みである。  美沙子は舗道《ほどう》にカタカタと靴音を響かせながら考えた。  フッと誘われるようにこの道へ入って来たのだが、あれはヤッパリ第六感の働きだったのかもしれない。ちょうど動物が餌《えさ》の匂《にお》いを嗅《か》ぎつけるように……。  そうとしか言いようがないではないか。なんの理由もなく忽然《こつぜん》とこの道に誘われて、そして思わぬおみやげを手に入れたのだから。  街灯《がいとう》の光に腕時計をかざすと、もう十時だ。今夜は按摩《あんま》さんは無理だろう。  だが、さっきまでの苛立《いらだ》ちはどこかへけし飛んでしまい歌でも口ずさみたい気分だった。 「儲《もう》けちゃったな」  美沙子は振り返って、たった今出てきたばかりの店を見た。  もうショウ・ウインドウの灯《あか》りを落としたのだろうか、道は黒い緞帳《どんちよう》を閉じたように秋の夜に埋《う》もれていた。  ルルー、ルルー。  夜中に電話のベルが鳴った。  道を歩いているときはあれほど眠かったのに、家に帰ってベッドに入ったとたん眼が冴《さ》えてしまい、仕方なしに美沙子はテレビの深夜映画を眺《なが》めていた。 「もし、もし」 「美沙ちゃん? 俺《おれ》だよ」  電話の声はすぐに瀬川とわかった。 「どうしてたの? 東京にいなかったの?」  十日も連絡がないのは、東京にいなかったせいだ、と思いたい。 「いや、そうじゃないんだが……。ちょっと厄介《やつかい》なことが起きてな」 「なーに?」 「いや、もういいんだ。会ったら話す。これから行ってもいいかい」 「こんなに遅く?」 「嫌《いや》かい」 「ううん。べつに……いいけど」 「じゃあ、すぐに行く。なにか食べたいものがあれば買ってくけど」 「今ごろ買えるの?」 「夜通し開いてるスーパーがあるから。果物《くだもの》やカン詰《づめ》くらいなら……」 「いらないわ」 「そう。じゃあ」  電話がプツンと切れた。  美沙子はきれい好きである。炊事《すいじ》、洗濯《せんたく》、掃除《そうじ》のうちでは、掃除が一番好きだ。いつも部屋の中はサッパリと片づいている。  だから瀬川が急に来ると言っても、べつにあわてて整理をする必要はなかったが、それでもベッドのシーツだけは新しいものに取り替《か》えた。ついでにパンティも替えようと思ったが、これは古いのを脱《ぬ》ぐだけ。あとはそのままでいることにした。なんだか電話を切ったとたん一刻も早く瀬川に抱かれたい気持ちになっていた。  瀬川|賢三《けんぞう》と知りあってから、もう一年以上になる。初めはお客として店にやって来て、その夜のうちに抱かれてしまった。こんなことは、ほかには一度もない。少し酔い過ぎてタクシーで送ってもらったのが縁だった。  瀬川は色の浅黒いハンサム・ボーイ。美沙子がなにより気に入っているのは……まあ、いろいろ好きなところはあるけれど、強《し》いて一つ挙《あ》げるなら……ホステスを特別な人間と考えていないから。実にサラッと普通の若い女性とつきあうようにつきあう。プレイボーイにはちがいないが、それなりに誠実味もあって、いっしょに過ごすには楽しくて頼りになる男だ。  セックスも巧《たく》みで、美沙子はいつもわれを失ってしまう。  瀬川は週に一、二度、美沙子のマンションに訪《たず》ねて来る。泊まることはまれだった。 「俺《おれ》たちは銭金《ぜにかね》の関係じゃないんだから」  と言いながらも、毎月マンションの家賃に少し余るくらいのお小遣《こづか》いをくれる。  美沙子は瀬川からはなにももらわなくたっていいと思う。だがそれとはべつに、瀬川がお金という形で心遣いを示してくれるのはうれしかった。  ——なにがあったのかしら——  ゆっくり考えてみると美沙子は瀬川のことをあまりよく知らない。  年齢は三十八歳。これは間違いない。結婚はしているが子どもはない。  会社は材木関係の商売で、瀬川はまだ若いのに取締役《とりしまりやく》のポストにいるらしい。話の様子では、その会社は瀬川が友人といっしょに始めたもので、従業員は二十人足らず。これならば取締役と言っても戸締り役みたいなもので、そう驚くには当たらない。  初めはちょっとした火遊びのつもりでやったことだったが、だんだん瀬川の人柄《ひとがら》と体になじんでしまい、今では美沙子の意識の中で相当に大切な人になってしまった。  電話が切れてから十五分もすると、玄関のドアが静かにあいて瀬川が入って来た。 「しばらく」 「本当にしばらくだわ。なにがあったの?」 「ウーン。もう少しあとで話すよ」 「なにか飲む?」 「いらないな」  瀬川が近寄って美沙子を抱いた。  ほんの挨拶《あいさつ》のつもりだったのに掌《てのひら》がネグリジエの上を滑《すべ》り、ヒップのあたりで「おや?」とばかりに止まった。唇《くちびる》を重ねたまま手は衣裳のすそをたぐりあげ、その下に忍び込む。  指先が触れたとき、美沙子のそのあたりはトンロリと潤《うる》んでたぎっていた。  瀬川の愛撫《あいぶ》は相変らず巧みである。それとも美沙子が好色なのだろうか。  いや、そうではない。ほかの男のときにはこれほどまで強く感じたりはしないのだから。  美沙子は瀬川を知るまで性の技巧にそれほど大きな個人差があるとは思わなかった。極端《きよくたん》に乱暴で、下手《へた》クソな男がいるだろうが、あとはみんな似たようなものだろうと思っていた。  そのことを考えると、美沙子は場違いにも学校時代の成績表を思い出してしまう。  セックスについては大部分の男は3で、時おり無骨《ぶこつ》で無神経な2や1がいる。それで全部だと思っていたが、どうやらこんなことにも4や5がチャンとあるらしい。  美沙子は人間についてあまり執着《しゆうちやく》心の強いほうではない。だから瀬川を好きになったとしても、いつでも別れられると思っていた。  だが、このごろはその気持ちもだんだんあやしくなってきた。自分の腕《うで》の中から瀬川を奪《うば》うものがいたら、なんとしてでも拒《こば》もうとするのではないかしら……。とりわけこうしてベッドで抱きあっていると、そんな執着心が揺らめいて仕方がない。 「すてき」  愛撫《あいぶ》が次第《しだい》に美沙子の内奥に染《し》み込んでいく。  体の芯《しん》に堅《かた》い、甘味な木の実があって、それが一枚、一枚皮を剥《は》ぐ。剥がれた皮は羽のようにひらひらと全身に広がり、雲のようになって消えていく。消えるとまた一つ、新しい皮が衣を脱ぐ。木の実はいつまでも、いつまでも快楽の皮を脱ぎ続ける……。  いったいどこまで続くのだろう。  瀬川の浅黒い体が上にのしかかって来た。果実を裂《さ》くように鋭いものが貫《つらぬ》く。  木の実はまたさらに豊饒《ほうじよう》に脹《ふく》らみ、急にガクガクとくだけ、おびただしい果汁《かじゆう》を流す。 「あ……」  美沙子が声をあげて達したとき、瀬川の熱さがゆっくりと体の奥へ広がった。  急に眼の奥に、朱《しゆ》色のスーツが浮かび、あかあかと脳裏《のうり》を焦《こ》がす。  この瞬間《しゆんかん》にどうして……?  美沙子は頭の片すみで一瞬考えたが、それもすぐに快楽の海へ溶《と》けて消えていく。 「どうしてしばらく来なかったの?」  ベッドは話し合うにもよいところだ。  瀬川は、まるで天井《てんじよう》の木目《もくめ》の中にうまい言葉が隠されているみたいに、じっと見上げていたが、急に首を曲げ美沙子を見すえるようにして言った。 「葬式《そうしき》があって……。女房が死んだんだよ」  言葉の意味がしっかりと頭に染《し》み込むまでに少し時間がかかった。 「本当に?」 「嘘《うそ》を言うわけがないだろう」 「そりゃそうだけど……。病気?」 「いや」 「事故?」 「うーん。自殺なんだ」 「どうしてまた……」 「わからん」 「見当もつかないの?」 「見当くらいつくさ」 「なんなの?」 「聞きたいか」 「ええ……」 「わかるだろう」 �わかるだろう�と言われれば、わかった。原因は美沙子にあるのだろう。 「ええ、まあ……」 「内向的な性格でね。少し前から俺たちの関係に気がついていたらしいが……いきなり最後のことをやってしまった」 「なにも死ななくてもよかったのに……」 「さあ、それはどうかな。あんたにはとても勝てないと思ったんだろう」 「あたしを恨《うら》んで死んだの?」 「気にするな。悪いのは俺なんだから」 「女はそう思わないわ。相手の女を憎むものよ」  これは本当だ。 「いずれ関係をはっきりさせるつもりだったんだが……」 「どうするつもりだったの?」 「性格もあわなかったし……。離婚するつもりだった」 「あたしにも相談しないで?」 「いずれするつもりだったけどな」 「言ってくれれば、身を引いたかもしれないわ」 「そんなつもりなのか。その程度のことなのか」 「そうでもないけど……」 「だろ? 俺もあんたと別れるつもりはなかった。あいつにはそれがわかったんだろ。もうどうしようもないほど感情がこじれていたんだ。仕方がない」 「冷たいのね」 「そうでもない」 「聞いて楽しい話じゃないわね」 「当たり前だ。だけど、とにかくあんたはそう深く考えることはない。もうみんなすんでしまったことだ」 「…………」  この上なく深刻《しんこく》な話にちがいないけれど、美沙子はもう一つピンと来なかった。  一つには瀬川が、美沙子の気持ちを考えて、あまりはっきりした話をしないせいもあるだろう。  だが、それ以上に瀬川の妻を知らないことが、もっと大きな理由のような気がした。どんな顔をして、どんな口のききかたをする人か、それさえわからないのだから実在《じつざい》感が薄い。  実在感のない人に恨まれたと知っても、身に迫《せま》るような恐怖はなかった。  だが……そんな暢気《のんき》な気分でいられたのはほんの短いあいだだけだった。  瀬川が身を起こして、 「タバコを取ってくれないか、その背広の内ポケットだ」  上着は美沙子のすぐそばにあった。ポケットを探《さぐ》ると、タバコより先に堅い紙が指先に触《ふ》れた。  女の写真……。 「これ、だれ?」 「ああ。葬儀屋《そうぎや》に写真の引き伸ばしを頼んだときのやつだ」  美沙子の顔からスーッと色が消えた。 「どうした?」 「こ、これが奥さんなの?」 「そうだよ」  瀬川が怪訝《けげん》そうに言う。 「なくなったのは……いつ?」 「十日前、あんたに電話をした前の日だ」 「本当に?」 「もちろん。どうして?」  美沙子は肩で息をついた。 「べつに……」  美沙子は写真の顔に見覚えがあった。  たしかに……たしかに、昨夜、あのちっぽけな洋裁店で見た女の顔ではないか。  瀬川はなにか勘違《かんちが》いをしたらしく、 「わるいものを見せちゃったな」  恐縮《きようしゆく》して背広のポケットに写真を収め、タバコの箱を抜き出した。  あの無表情な顔……。  抑揚のない声……。  しかし、どうして?  気を取りなおして美沙子が尋《たず》ねた。 「奥さんの実家はどこ?」 「三鷹だ」  三鷹と言えば、昨夜歩いたあたりも三鷹の郊外ではないか。 「そちらに、姉さんか妹さんか、住んでいない? だれか洋裁店をやってる人が……」 「いないな。女房はむかし洋裁店に勤めていたけど……」  もうこれ以上とても聞く気にはなれない。  瀬川に話したら笑われるだけだろう。他人の空似《そらに》なんだ。ただ、それだけのことよ。写真だって、チラッと見ただけだし……。  昨夜の印象《いんしよう》が頭に残っていたものだから、ちょっと似たものを見せられただけで、つい妙なことを連想してしまった。  冴《さ》えない表情の美沙子に、瀬川は、 「とにかくあんまり気を痛めないでくれよ」  こう言いながら、もう一度肩に手を巻いた。  目を醒《さ》ましたのは午後四時過ぎだった。  瀬川は朝方まで美沙子のベッドにいて帰った。美沙子はそれから眠った。八時間はタップリ眠った勘定《かんじよう》になるのだが、寝覚めの爽快《そうかい》感はなかった。全身がかったるく、頭がボヤーッと雲を描いているようだ。  熱いコーヒーを飲めば少しは冴えるかと思ったが、それもたいして効果がない。  店に出るのなら、すぐに用意をしなければいけないのだが、とてもその気になれない。  ふと思い出して部屋《へや》のすみに立てておいた洋服箱をあけてみた。  朱色のスーツは、なんの変化もなく箱の中に収まっている。当たり前のことだが……。  頭がボヤけているせいもあって、昨夜の洋裁店のことは、みんな夢の出来事《できごと》のような気がした。しかし洋服がチャンとここにこうしてたたんである以上、夢のはずはない。  むしろ夢のように不確かなのは洋裁店で見た女の顔であり、そして瀬川のポケットから出た写真の顔である。  写真を見たときは、一瞬、  ——似ている——  と思ったが、今思い返してみるとどれほど似ていたか、あまりはっきりした印象を描くことができない。 「へんな感じ……」  美沙子はこう呟《つぶや》きながら、スーツを箱から取り出して体に当ててみた。  眼に染《し》むほどの色彩は蛍光灯《けいこうとう》の光で見たときよりも一層|微妙《びみよう》な色あいで美しい。デザインも見れば見るほどしゃれている。いつかウンガロのプレタポルテで似たようなデザインを見たことがあるが、それを真似《まね》たのかもしれない。 「九千円は安いな。ウンガロの作品てことにしようかな」  うれしくなってくると、不安のほうがその分だけ薄くなる。もともと他人の空似で、不安に思うほうがおかしいのだから……。  美沙子は棚《たな》の奥からしばらく履《は》かないでいた赤い靴を取り出して、服にあわせてみた。  お客さんからもらったイタリアみやげの黒いベルトがあって、それとあわせた感じもわるくない。  あれこれするうちに時間がたって、もう完全に店に出るのが嫌《いや》になった。 「仕方ない。休んじゃおう」  こうきめるとマッサージ屋さんに電話をした。八時にいつもの按摩《あんま》さんに来てもらうよう予約をして、食事に出た。  按摩さんは時間通りにやって来た。  女の按摩さんで、目は悪くない。美沙子はいつもこの人にやってもらうことにしている。  揉《も》みかたも上手《じようず》なのだが、美沙子が小さい頃、家にいた姐《ねえ》やによく似ているような気がして安心感があった。  顔よりも声が似ている。  揉まれながら話を聞いていると姐やのことを思い出してしまう。按摩さんの生まれたところも姐やの故郷と近いらしい。姐やは今ごろどうしているだろう。  姐やの名は�春《はる》さん�と言って、ずいぶん年かさのように思っていたが、せいぜい三十四、五歳だったはずである。母がいなかったので美沙子はこの姐やに育てられたようなものだった。  炬燵《こたつ》にすわって姐やからお話を聞くのがなによりの楽しみだった。 「ああ、だいぶ凝《こ》ってますね」  按摩さんがこう言いながら浴衣《ゆかた》の上から肩を揉みほぐす。とてもいい気持ち……。  姐やは本当によくいろいろな話を知っていた。だれから聞いたのだろう? とても本で読んでいたとは思えないし……。話しかたも身振りを交《まじ》えてなかなか真《しん》に迫っていた……。  木こりが雪の山で白い反物《たんもの》の山を見つけた話があった。その反物を盗もうとして……いや、そうではなかった。いい者《もん》の木こりが山で行き倒れの老人を助け、家まで送って行くと、その老人の家は三つ山を越えた先にあって、お礼にりっぱな絹《きぬ》の反物をくれた。  里に帰ってから、 「土蔵《どぞう》の中に、まだまだ白絹の反物が山のように積んであった」  と話したところ、悪い者《もん》の木こりが山を三つ越えて反物を盗みに行った。  首尾《しゆび》よく反物の山を見つけて一番下の一本を抜き取ると、ガラ、ガラガラ、ガラーッ、白い反物の山が崩《くず》れてたちまち雪崩《なだれ》になった。悪い者の木こりはその下に潰《つぶ》されて死んでしまった。  姐やが、 「だから欲を出しちゃいけんの」  もっともらしい顔で言っていたのを思い出す。  大洪水《だいこうずい》のとき竹のつづらが流れて来る話もあった。村の男がそれを拾いあげ、中も見ないで土蔵の中にしまっておいた。ある日、その男が土蔵に入って箪笥《たんす》の鏡をのぞくと、うしろに水死《すいし》人の幽霊《ゆうれい》がボーッと立っていて……。  その幽霊とつづらがどういう関係なのか、そのへんの話は姐やがチャンと話してくれたかどうか、よく思い出せない。あれは訳もなく怖《こわ》い話だった。  今でも美沙子は人気《ひとけ》ない夜中に鏡をのぞくのがおそろしい。  怖い話と言えば、布団《ふとん》が若い妻をひねり殺す話もあったっけ。  姐やの話はどうして、ああ気味のわるい話が多いのだろう。こっちもこっちで怖いくせに、 「もっと話して、もっと怖いの」  と、性懲《しようこ》りもなくせがんだりして……。  たしかその布団は、前の奥さんが使っていた布団だった。前の奥さんが嫁入りのときに持って来て……違ったかしら、とにかく奥さんは重い病気にかかってその布団の中で息を引き取った。  亭主は臨終《りんじゆう》の床にも姿を見せず妾《めかけ》のところへ入《い》り浸《びた》っていた。  やがて、その妾が二度目の妻としてその家へ入って来た。たまたま押入れの奥に花柄《はながら》の美しい布団を見つけ、 「あら、こんなすてきな絹布団」  すっかり気に入って、早速《さつそく》それを掛けて眠った。  夜|更《ふ》けて女が息苦しさに目をさますと、布団が女を包んだままキリキリと雑巾《ぞうきん》を絞《しぼ》るようにねじれて……。  ここまで思って美沙子はドキンとした。  どうしてこんな話を思い出してしまったのだろう?  布団と、朱色のスーツを置き替えて考えたら……なんだか似たような話になりやしないか。あのスーツに瀬川の妻の怨念《おんねん》がこもっていて……。 「厭《いや》だわ」  美沙子が声をあげた。 「どうかしましたか」 「いえ、べつに……」  マッサージがすんだところで、按摩さんに言った。 「ちょっと頼まれてくれない? 電話をかけてほしいの」  もう瀬川の奥さんはいないはずだから気を遣《つか》わなくてもいいようなものだが、それでもやはり瀬川の自宅へ直接美沙子が電話をかけるのは厭だった。 「どちらへ」 「この番号」  と、メモに書いて渡して、 「マッサージのものだが、って、ご主人を呼び出してほしいの」  美沙子は大げさに手を合わせ、片眼をつぶって頼んだ。  瀬川はたまに按摩にかかると聞いていたから、これなら電話口にだれが出ても迷惑《めいわく》をかけることはあるまい。 「はい」  いつもチップをはずんでいるので、こころよく承知してくれた。  電話口には直接瀬川が出たらしい。美沙子が替《かわ》って受話器を当てた。 「ごめんなさい。あたしなの。今、いい?」 「なんだい、急に。めずらしい」 「突然へんなこと聞くけど……奥さん、赤い、朱色《しゆいろ》がかったスーツを持っていなかった?」 「どうして?」 「ううん。ただなんとなく」 「そうだなあ」 「襟《えり》が四角くって……」 「見たことないね」 「そう」 「どうしてそんなこと、聞くんだ?」 「うん。ただ夢の中に出てきたから……」 「色つきの夢を見るのか」 「そうよ」 「疲れてる証拠《しようこ》だって言うぜ」 「かもしれないわ」  あとはたわいのない話に変わった。 「また近いうちに来てね」 「うん。まだちょっと後始末があってな」  按摩さんが待っているので、適当なところで話を切りあげた。 「これで安心」  按摩さんを帰したあと、ひとりベッドに寝転がって美沙子はクスリと笑った。  馬鹿げたことを本気で信じて電話までかけた自分がおかしかった。もし偶然《ぐうぜん》瀬川の妻が朱色の服を持っていたら、自分はどんなに驚いただろう?  マッサージを受けると条件反射のように美沙子は眠くなる。テレビのスイッチを切って早々と睡魔《すいま》に身をゆだねた。  だが、夢見はよくなかった。  夢の中で瀬川の妻が洋裁店を開いていた。あの、ちっぽけな薄ぎたない店である。何枚かの灰色の服に混《まじ》って、あのスーツが色|鮮《あざや》かに輝いていた。美沙子がそれを着ると雑巾を絞るように体がねじれた。  美沙子は明けがたに目をさました。外には雨が降っているらしい。  一人の女が自分を恨みながら死んだ。その女とそっくりの人から自分はスーツを買った。それも裏通りの、人気ない奇妙な店で……。  朱色の衣裳《いしよう》は、自分になにかとてつもない不幸を運んで来そうな気がした。  翌日の昼さがり、美沙子は六本木の喫茶店に陽子を呼び出した。  陽子も、美沙子と同じ�カトレア�のホステスで、店の仲間では一番親しい。  陽子は笑うと大きな白い歯がキラキラと光る。名前の通り陽気な現代っ子。美沙子は自分の中に、ちょっと古風で、陰性で、ジメッとした部分があるので、つきあう相手には陽子のようなタイプが好ましい。 「ちょっと変な話があるの。コーヒーおごるから相談にのってよ」  美沙子が誘うと、 「うん、いいよ」  気安くうなずいて、陽子はすぐに約束の喫茶店に来てくれた。  夜来《やらい》の雨がきれいに町を洗って日の光がすがすがしい。夜の静寂《しじま》の中で抱《いだ》いた、おどろおどろしい不安も、真昼のまぶしさにあえば滑稽《こつけい》以外のなにものでもない。  美沙子は、ものは試《ため》しと朱色のスーツを着てマンションを出た。 「すてき! どうしたの? おニューじゃない」  Gパン姿の陽子は眼を吊《つ》りあげて言う。 「わりといいでしょ」 「わりとどころじゃないわ。どこで? いくら?」  矢つぎばやに聞く。 「それが問題なのよ」  美沙子はトマト・ジュースをマドラーでかきまわしながら洋服を買ったいきさつを話した。  瀬川とのことは前々から陽子に話してあるので、奥さんが自殺したとだけ言えば、だいたいの事情は通ずるはずだ。 「奥さんの実家は三鷹なの。そこで死んだらしいのよ。たまたまあたしがその付近を通りかかって、へんな店でこのお洋服を買っちゃって……。店の人が奥さんとよく似た顔なんだから、ホント、気味がわるくって」  美沙子が肩をすくめた。  陽子はまじまじと美沙子の顔を見て、それからわざと吹き出して見せた。 「バッカみたい。あんた、本気でその人の幽霊が出たと思ってんの」 「そうでもないけど」 「じゃあ、なんも心配ないじゃない。九千円なら大儲《おおもう》けよ。あんたが厭なら、あたし、ほしいくらい。寸法があわないか」 「スーツはすっごく気に入ってんのよ。気に入り過ぎて、それがかえって怖いみたい。昔からよくあるじゃない、こういう話」 「どういう話よ」 「死んだ人の首|飾《かざ》りを身につけたら首を絞められたとか……。死んだ人の形見《かたみ》を着て病気になったとか……」  陽子はまたゲラゲラ笑い、タバコの煙をのんで咳込《せきこ》んだ。涙を流して笑っている。 「じゃあ、どう、着心地《きごこち》は? なんとなく体が締めつけられるような、胸が苦しいような、心臓が突然止まるような……」 「ううん、ぜんぜん」  美沙子も笑った。  着心地は爽快《そうかい》そのものである。とても死者の怨念《おんねん》が染み込んでいる衣裳のようではない。 「心配なら、もう一ぺん、その洋服屋さんへ行ってみたらいいじゃない。昼間っから店開きしている幽霊なんて聞いたことないわ」 「でも遠いのよ。あんなところまで行くの、もうたくさん」 「心配してるわりには横着《おうちやく》なのね」 「本当言えば、そう心配してるわけじゃないけど、偶然《ぐうぜん》が重なるとへんな気分よ。やっぱり奥さんの自殺はショックだしね」 「それで、あんた、少し神経過敏になっているのよ」 「まあね」 「それより、これからどうするの。瀬川さんと一緒《いつしよ》になる気?」 「わかんない。奥さんが生きているあいだは意地みたいなものがあったけど、相手に死なれちゃうと……」 「なんだか拍子《ひようし》抜けして」 「まあ、そんなとこね」  口ではこう言ったが、美沙子はそれほど拍子抜けをしているわけではなかった。  それを考えると美沙子は人間なんて残酷《ざんこく》なものだと思う。真実のところ美沙子には瀬川の妻を悼《いた》む気は少しもなかった。率直《そつちよく》に言えば、 「ああ、よかった」  なのだ。  だからこそ美沙子は死んだ女の心が怖い。むこうだってとてもただでは死んでくれまい——そんな奇妙な判断が心のどこかに住みついていて……。理性というより感覚の問題だった。  しかし陽子と話して屈託《くつたく》がほぐれた。  いつのまにか二人の女の話は、この新しいスーツにどんな靴を履《は》くつもりか、どんなネックレスが似合うか……そういう方向へ移っていった。 「今日は店に出るんでしょう」 「うん」 「新調の日よ」 「これ着て行くモン」 「そうしなよ」  女たちは陽気に笑いながら別れた。  その夜�カトレア�で朱色のスーツはなかなか好評だった。  ママもいたく満足の様子で、お客の席につくたびに、美沙子を眺《なが》めて、 「美沙子、今夜はすごくすてきよ」  と、ほめあげる。  お客たちはたいてい、 「うん、いい色だ」 「よく似合うよ」 「安物じゃないねえ」  などと、あらためて美沙子のスーツを見なおして適当なお世辞《せじ》を言う。  だがママの本当の狙《ねら》いは、お客の注目を美沙子に集め、あれこれお世辞を言わせるためではない。  ママはお客の席の輪《わ》に割り込んで来ては、その都度《つど》けっして忘れることなく美沙子の衣裳をほめる。  お客のほうは、そのとき一回聞くだけだが、ほかのホステスは一夜のうちに何度も同じことを聞かされる。美沙子のほうだって、その都度大げさに感心されるのだから少し馬鹿らしくなる。  こうなれば厭でもママの胸のうちはほかのホステスに伝わってくる。 「美沙子、とてもすてきよ」  を翻訳《ほんやく》すれば、 「それに引きかえ、あんたたちはなによ。新調の日なのに……。ろくなものを着て来ないわね。も少し考えてくれないと……明日から来なくてもいいわよ」  となる。  お客の輪の中でニコニコ笑いながら冷酷に宣言している。女たちも首筋に冷たいものを感じながら、愛敬《あいきよう》を振りまいている……。  ホステスたちはママやお客のいないところで、美沙子をつついて、 「どこで買ったの?」 「いくら?」  と、尋ねる。  美沙子は鷹揚《おうよう》に頬笑《ほほえ》んで、 「青山に知り合いの店があるの。六万円なんだけど、少し安くしてもらって……」  と、答える。  腹の底からおかしさがこみあげてくる。  ママの心証《しんしよう》をよくして点数を稼《かせ》いだし、同僚《どうりよう》たちをうらやましがらせ、ちょっと欺《だま》すのもわるい気分じゃない。  それに……今夜あたりは瀬川が来るかもしれないし……。思いっきり甘えてみようかしら。どうも運が向いて来たようだ。なにを怖がっていたんだろう。これは幸福を呼ぶスーツなのかもしれない。  美沙子は三日間続けて同じ洋服で店に出た。お客のほうは毎日来るわけではないから、かえってこのほうが同じお客に同じ衣裳を見られる可能性が少ない。  なまじ三日置きに同じ衣裳を回転させたりすると、同じ周期で店に来る客がいたりして、 「君、いつも同じ服だなあ」  となってしまう。  三日間は、九分通りまでなにごともなく過ぎ、閉店の時刻が来た。  最後の客はしたたかに酔っていた。 「おーい、美沙子。今晩俺とどうだ」  中年の男はくわえタバコのまま美沙子にしなだれかかった。 「駄目よ、サーさんたら……。そんな酔っぱらってちゃ。美沙子とても強いんだから。満足できないわ」 「こいつ、言ったな。じゃあ、ちょっとだけ触《さわ》らせろ」 「いやーッ。駄目。エッチ。ほら、タバコが危ないじゃない」 「バスト、本物か」  お客がこう言ったときだった。 「キャーッ」  魂消《たまぎ》る悲鳴が起きた。  どこかに触られたにしては、ちょっとひどすぎる声だ。 「どうしたの?」 「大変」 「早く……だれか……」  ホステスも、客も、ボーイも、一瞬の光景にただ呆然《ぼうぜん》と見つめるだけだった。  美沙子の最後の証言《しようげん》を頼りに警察は洋装店を捜《さが》したが、どこにもそれらしい店は見つからなかった。  美沙子はショックで頭がおかしくなった……これが大方の意見だった。  警察はまた、繊維《せんい》メーカーを隈《くま》なく調査して歩いたが、ここでもおもわしい情報は得られなかった。  ある化繊メーカーでは、 「そりゃたしかにそんな化学繊維を作ることは可能ですよ。しかし、危険ですからね。どこの会社だって作るはずがないですよ。輸入だってできませんしねえ」  と、首をかしげた。  しかし、とにかく閉店|間際《まぎわ》のクラブの片すみで、タバコの火が近づいたとたん、美沙子のスーツがパッと燃えあがったのは現実なのだ。  みんながあれよあれよと見守る中で、火の色のスーツは火そのものに変わった。  見ようによっては、その色彩はスーツ自身よりさらに美しかった。  美沙子はたちまち火ダルマになる。服を脱ごうとしたが簡単には脱げない。朱色の火に染まりながら床の上を転がった。最後にスッと立ちあがったとき、それは真実美しい炎の衣裳となった。  病院に運ばれた美沙子は、ほんの二、三の言葉を残しただけで危篤《きとく》状態に陥《おちい》り、そのまま息を引き取った。  だから、本当のところは——あの薄ぎたない洋裁店の話を除《のぞ》けば、なにもわからない。  しかも、その店が美沙子の話したところにないとすれば……。  瀬川も一応取り調べを受けたが、彼には疑わしいところはなにもなかった。  陽子は口をとがらせて言う。 「とにかく、げんにスーツが燃えたんだから、どこかでそういう洋服を作って売った店があるはずよ、絶対に……。幽霊? そんな馬鹿なこと、あるわけないでしょ。第一、化学繊維を使うお化けなんか聞いたこともないわ」  そうだろうか?  亡霊《ぼうれい》とか、死後の怨念《おんねん》とか、そういうものが実在するかどうかはわからない。  しかし、もし実在するなら、幽霊の世界にも技術の進歩があるだろう。いつまでも江戸《えど》の風俗《ふうぞく》とは限らない。  そして、これがもし幽霊の仕わざでないとすれば……そのときはだれかコッソリと教えてほしい。どこへ行けば、そんな便利なスーツが買えるものか。  私にも一人スーツを贈りたい女がいて……。 [#改ページ]   紙の女 「さて、やめるか」  北村桂介《きたむらけいすけ》は製図《せいず》台の上に定規《じようぎ》とコンパスを置いて、ひとつ背伸びをした。  時計は夜の十時を少し廻《まわ》っている。さっきまで何人かの部下が残って仕事をしていたが、もうだれもいなかった。  連日の残業《ざんぎよう》で眼の奥に疲労がたまっているのがよくわかった。どうかすると製図紙の上に小さな黒い点が浮かび、無数の蚊《か》のようになって飛んでいく。  事務室の電燈《でんとう》を消し、部屋《へや》の鍵《かぎ》を締めて廊下《ろうか》に出た。  桂介はN精工《せいこう》株式会社設計課の係長である。自分で図面をかくこともあったが、主な仕事は現場や企画室の注文を聞いて見取《みとり》図を描いたり、作図上のアウトラインを係員たちに指示したりすることであった。 「まあ、立体と平面の橋渡しみたいな仕事ですよ」  桂介はいつも口癖《くちぐせ》のように自分の仕事をこう説明していた。  二か月ほど前に系列の電機メーカーから大量の部品|注文《ちゆうもん》があって、仕事は急にいそがしくなった。もともと人員の少ない設計課としては残業で乗り切るよりほかになかった。  だから桂介が会社を出るのは、いつも十時から十二時のあいだ。疲労がたまっているのは自分でもよく気づいていたが、しばらくは仕方がないだろう。不景気風が吹く今日この頃《ごろ》としては、むしろぜいたくな苦労のほうかもしれない。  眼を閉じるとさまざまな機械の部品と設計図が黒く網膜《もうまく》に浮かび、そしてぼうと薄れて消えて行く。 「おつかれさん」 「お休みなさい」  守衛《しゆえい》に鍵《かぎ》を預けドアの外に出ると、ムッとする夜の温気《うんき》が全身を包んだ。  会社を出た桂介は駅の近くの居酒屋《いざかや》に立ち寄って冷たいビールを飲んだ。ジーンと鳴るような酔いが胃の腑《ふ》から全身に広がる。 「もう一本いきますか」 「うん、もらおう」  酒は強いほうではない。いつも大壜《おおびん》一本と決めているのだが、この夜はもう一本飲む気になった。  昼間|上役《うわやく》と口論《こうろん》をしてムシャクシャしていたせいかもしれない。  しかし、酔ってみたところで心の屈託《くつたく》が解消されるものではない。桂介は酒場を出て駅に向かった。  桂介の住まいは郊外のマンモス団地の中にある。これから一時間あまりも電車に揺られて帰らなければいけなかった。  あいにくその夜は電車事故があって、車内はひどく混《こ》んでいた。そして、おきまりのノロノロ運転……。途中で何度停車したかわかりやしない。ようやく郊外の駅に着き、それからまたタクシーを待って長蛇《ちようだ》の列……。  桂介の気持ちは疲労のせいもあって、自分ではどうしようもないほど苛立《いらだ》っていた。だからいつもなら我慢《がまん》のできることが堪《た》えられなかった。  団地の脇《わき》でタクシーを止め、 「いくら?」 「八百十円」  桂介は千円札を出すと運転手がブッキラボウに言った。 「釣《つり》なんかないよ」 「俺《おれ》もこまかいのはない」 「釣はないんだよ」 「じゃあ家まで行って取って来る。ここの四〇五号室だ」 「いそがしいんだよなあ。百九十円くらいどうでもいいじゃないか」  桂介はムッとした。 「それはどういうことだ。つり銭も用意してないし待つこともできない。そのくせチップだけはほしいのか」 「お客さん、俺を怒らせるなよ」 「まるでゆすりだな」  桂介は千円札を運転席のほうへポンと投げ、外へ出ると車のドアを足蹴《あしげ》にして締《し》めた。  自動車が走り出したので桂介はそのまま行ってしまったのだとばかり思っていた。ところが車は四、五メートル先で停《と》まったらしい。運転手が降りて来て、 「バカヤロウ」  こう言っていきなり桂介を突き飛ばした。  桂介はヨロヨロよろめいてアパートのコンクリート壁に頭を打った。頭の中がポッと白くなり、そのまま土の上に倒れた。  どのくらい気を失っていたのかわからない。そう長い時間ではなかっただろう。気がつくとまだ頭の中に白い靄《もや》がかかっているような、おかしな気分だった。  桂介はとにかく立ちあがってアパートの階段を昇った。十六号|棟《とう》の四〇五号室、それが彼のすみかである。  三階の踊《おど》り場まで来たとき桂介はふと思い出した。朝、出がけに妻の今日子《きようこ》が、 「きょうは母さんのところへ行くの。泊《と》まるかもしれない」  そう言っていたのを。実家《じつか》に帰ればいつも一晩は泊まって来る。  だから四階まで来て郵便受けから小さな光が漏《も》れているのを見ると意外な感じがした。 「きょうは行かなかったのかな」  こう独《ひと》りごちながら桂介はドアをあけた。  そしてギクリと立ち止まった。玄関の様子がまるで違っているのだ。  桂介は初め自分がついウッカリと三階かあるいは五階のドアを押したのだと思って、もう一度外に出てドアのルーム・ナンバーを見なおした。  だが、そこには間違いなく�四〇五号室�と白いペンキで書いてある。  そこで今度は十六号棟に入るべきところを十五号棟か十七号棟に入ってしまったのだと考えた。団地の構造はどこもかしこもよく似ているので、これはけっしてありえない話ではない。  桂介はソッとドアを閉じると今昇って来た階段を引き返し、一階の登り口に記された号棟ナンバーをながめ見た。  ところが、そこにもはっきりと�十六号棟�と刻まれている。  桂介は急に笑い出した。 「そうか。今日子のやつ、部屋の模様替《もようが》えをしたのか」  酔っぱらっていたので、てっきりだれか他人のアパートへ入り込んでしまったと思ったのだ。馬鹿な話だ。桂介はもう一度トタトタと階段を登って四階にたどり着いた。 「ただいま」 「はい」  妻の声ではない。  声に続いて現われたのは妻ではなかった。  女は白地に紺《こん》の水玉を散らしたワンピースを着ている。広くカットをした胸もとで豊かな髪《かみ》が波打っている。片えくぼの深い、愛らしい顔立ちである。 「どうしたの? 汗《あせ》をかいて。部屋《へや》はよく冷えてるわ」  女は桂介がそこに立っていることを少しも怪《あや》しんでいない。 「あなた……だれですか」  桂介が尋ねると、一瞬女は奇妙《きみよう》な目差《まなざ》しで彼を見|据《す》えたが、すぐに笑い出して、 「いやねえ。なんのイタズラなの」  こう言いながら部屋のほうへ姿を消した。  ——なにか自分の知らない秘密があるらしいぞ——  桂介はわけのわからない興味を覚え、靴《くつ》を脱いで部屋にあがった。  窓の位置や部屋の造作《ぞうさく》に覚えはあったが、部屋の中の様子はまるで違っている。窓には淡《あわ》いピンクのカーテンが掛かり、寝室の中央に大きなダブル・ベッドが置いてある。  女はベッドのすみにすわって、 「なにか……飲む?」 「いや……」  桂介は思った。団地|売春《ばいしゆん》かもしれない、と。  しかし、それがどうして自分のアパートで? 「お風呂《ふろ》は?」 「いや、面倒《めんどう》くさい」 「じゃあ」  女は二言、三言世間話をしながら桂介のそばににじり寄り、手を取って胸に当てた。香水の匂《にお》いが桂介の官能を高ぶらせた。  なにもかもわからないことだらけだった。普段の桂介ならばもっと用心深かったかもしれない。しかし、その夜はひどく疲れていた。頭を使うのはもうなにもかもいやだった。  それに女は充分にチャーミングだった。ワンピースの下には、日本人にしてはめずらしいほど豊満な乳房《ちぶさ》が息づいている。  桂介はもうどうとでもなれという気分だった。抱き寄せると、女は大きな猫のようにしなやかに腕の中に崩《くず》れ落ちる。胸のスロープのてっぺんで形のよい乳首がもう堅《かた》くなって上を向いている。桂介はそれを口に含《ふく》んだ。 「あ、あっ」  女の息が漏《も》れる。  ワンピースの下にはなにもつけていない。桂介は膝《ひざ》のあたりから手を忍ばせ、太腿《ふともも》の間を縫《ぬ》って脚《あし》のつけ根に掌《てのひら》を止めた。もっと奥に進もうとすると女は腰をひねってあらがう。桂介の指が追う。女はまた逃げる。  三度目に桂介の指先が花芯《かしん》を捕らえた。 「いや」  女の口から意味のない言葉が零《こぼ》れた。女はもう逃げようとしない。目を閉じ、唇《くちびる》をかすかに開いて、内奥に高まって来る歓《よろこ》びを待ち望んでいるように見えた。  女の顔にあせりの表情が映り始めたとき桂介がワンピースを奪《うば》った。女は手で顔をおおい、脚をピッタリとそろえている。長い髪がベッドの上で円を作って乱れ、高価な敷物《しきもの》のように広がった。  桂介は唇を吸い乳房をすすり女の上に折り重なった。桂介の動きにつれ女の呼吸が激しくなりベッドがきしきしと揺れて鳴った。  やがて桂介の体の芯を鋭い快感が走り抜け、通り過ぎ、虚脱《きよだつ》のひとときがやって来た。頭の中にまた白い靄《もや》がかかった。その靄が次第《しだい》に濃くなり、重くなり、頭の中の血がグングンと計《はか》り知れない陥穽《かんせい》へ落ちて行くように思った。  朝の光が十六号棟の四〇五号室にそそいでいる。桂介は東に面したかすかな明るさの中で目をさました。  女はいない。  それどころかダブル・ベッドもピンクのカーテンもなかった。少し旧式のテレビ、オレンジ色のカーテン、花がらの夏がけ……日頃《ひごろ》見慣れた彼自身のアパートが周囲にあった。桂介は服も脱がずに座布団《ざぶとん》の上に横たわっていた。  時計を見るともう出勤の時間に近い。桂介は頭を揺すりながら起きて洗面所に向かった。頭の中にもう白い靄はなかったが、目を閉じると相変らず無数の設計図や機械の部品が浮かんで来る。  鏡に映った顔には、こめかみのあたりに小さな傷《きず》があった。昨夜、運転手に突き飛ばされたときの傷なのだろう。 「すると、あそこまでは夢ではなかったのだな」  桂介はこう呟《つぶや》いたが、それから後の出来事《できごと》もけっして夢だと思っているわけではなかった。  そうではない。冷静な理性でたどってみれば、それは夢とでも思うより仕方のないことであり、だから桂介はとりあえずそう思ってはみたのだが、女のイメージはなにもかも明晰《めいせき》で、手のうちに残る感触も確かである。とても夢とは思えない。  時計が七時を打った。桂介はいつもの朝と同じように家を出た。外に出ると、団地のサラリーマンが駅へ急ぎ、これもいつもと変わらない朝の風景がそこにあった。  会社に向かう電車の中で桂介はもう一度昨夜のことを反芻《はんすう》してみた。  まず酒に酔っていた。極度に疲労していた。タクシーの運ちゃんに突き飛ばされて壁に頭を打った。 「それで頭がおかしくなったんだろうか」  そう考えるよりほかにない。  しかし……人間はあれほど鮮《あざや》かな幻影《げんえい》を描くものだろうか。桂介の心に昨夜の女の顔が映った。白い肢体《したい》が浮かんだ。桂介の体を捕らえて離そうとしない熱い感触も思い出された。  桂介は通勤の道筋ずっと思い悩んだが、そういつまでも奇妙な追想に耽《ふけ》っているわけにはいかない。会社に着けばまたいそがしい一日が待っている。係員たちがいろいろの図面を持ってやって来る。桂介は描かれた図面が過不足《かふそく》なく注文の要素を満たしているか、矛盾《むじゆん》なく立体を作っているか、寸法にくるいはないか、一つ一つ丹念《たんねん》に図面を調べなければいけない。  仕事に没頭《ぼつとう》していると、もう昨夜のことなんかすっかり忘れてしまうのだが、それでも桂介は時折《ときおり》手を休めて首を傾《かし》げた。なにやら白い図面の中にさえ不思議ななつかしさを覚えてしまう。それがいったいなんなのか、わからない……。  昼休みには、小さな事件があった。いや、事件と呼ぶことさえ不適当な、ささいなことだろう。  若い係員たちが二、三人集まってなにやら騒《さわ》がしく話していた。桂介が通りかかると、 「北村さん、これ、できますか」  こういって小さな紙切れを差し出した。  紙切れには、次のような図がかいてある。 (図省略) 「これはなんだね」 「ある立体の正面図と平面図です。どんな立体か考えろっていう問題なんです」  桂介はもう一度ゆっくり絵をながめた。 「二つとも同じ図だな」 「ええ。正面から見ても、真上から見ても同じなんです」  桂介は一、二分考えたが、すぐに答えを出した。 「やさしいじゃないか。三角の積《つ》み木の斜面の下部に角柱《かくちゆう》の頭が出たような形だよ」 「はあ?」 「わからないのか。見取《みとり》図をかけばこうなる」  桂介は鉛筆《えんぴつ》を取ると、紙の余白にサッと図形をえがいた。  その見取図は、こんな形だ。 (図省略) 「これでいいだろ」 「なーるほど」 「なんだ。君たちみんなで考えてこんなことがわからないのか。設計課員がそんなことじゃ困《こま》るぞ」  桂介は笑いながら立ち去った。 「係長はさすがに図面から立体を読み取るのが早いな」 「商売! 商売!」  係員たちの陽気な声が背後で響いた。  出来事といえば、ただそれだけのことだった。普通ならばすぐに忘れてしまうほどのことだったろう。  やがて始業のブザーが鳴り、また多忙《たぼう》な時間が始まった。桂介は目まぐるしく働き続け、その夜も会社を出たのは十時過ぎ。重い体を引きずって郊外のアパートへたどり着いた。なかば期待しなかば不安を抱きながらドアを押しあけたが、家の中にはなんの変化もなかった。妻の今日子が現われ、 「きのうはごめんなさい。つい母さんと話がはずんじゃったものだから泊まっちゃったのよ」 「ああ」  桂介は靴を脱ぎながら、玄関の壁を見るとそこに女の絵が掛かっている。彼は取り憑《つ》かれたようにその絵を見つめた。  絵の中の女は水玉のワンピースを着てベッドに腰掛けている。長い髪が波を描いて肩にかかり、頬《ほお》には深い片えくぼがあった。  昨夜の女だ。 「この絵、どうしたんだ?」 「あら、きのうの夜、気がつかなかった?」 「…………」 「雅代《まさよ》さんがきのうの昼頃|挨拶《あいさつ》に見えて、餞別《せんべつ》のお礼だって……。どうせ倉庫《そうこ》のすみにあったもんじゃないの」  雅代というのは今日子の従姉《いとこ》で今度東京を引き払ってアメリカへ行くのだとか。古い家なのでこんな絵が倉庫の中にあったのかもしれない。 「無名の画家らしいけど、いい絵じゃない」 「うん、いい絵だが……」  桂介はまたしても考え込んでしまった。  昨夜はきっとボンヤリした意識の中でこの絵を見たのだろう。そして、それから……。  そう考えたとき桂介はわけもなく今日の昼休み若い係員たちと交わしたやりとりを思い出した。 「係長はさすがに図面から立体を読み取るのが早いな」 「商売! 商売!」  こう言ってみんなは笑っていたが、あれは本当かもしれない。  桂介はいつも平面に描かれた設計図を見てそれを立体に再現する仕事ばかりをやっている。  そんなことを毎日毎日|繰《く》り返しているうちに、いつの間にか奇妙な能力が身についてしまったのではあるまいか。この二十号たらずのカンバスにかかれた女を見て、それをすぐさま立体像に仕上げてしまう——そんなおかしな才能が備《そな》わってしまったのではないのか。  絵の中の女が昨夜の女であることは、よく見れば見るほど明白である。豊満な胸のたゆたい、白く長い腕、襟足《えりあし》にかかるおくれ毛さえもはっきりと記憶がある。 「どうしたのよ?」  今日子が声を掛けた。 「いや、べつに」  桂介は気を取りなおして靴を脱いだ。 「お父さんがいいウイスキイをおみやげにくれたわ。飲む?」 「うん、少しもらおうか」  今日子は押入れの中からジョニイの黒ラベルを取り出し、テーブルの上に氷といっしょに並べた。 「どうしたの? さっきからムッツリ考え込んじゃって」 「なんでもないんだ。それよりなにかピーナツでも出してくれ」 「疲れてるのよ。少し飲んだら眠ったほうがいいわ」 「ああ、そうする」  たしかに疲労が体のふしぶしに溜《たま》っている。  眼を閉じると、また脳裏に図面と機械の部品が浮かびあがった。設計図の中の絵が自分に対応する部品を求めて頭の中をさまよい、部品が自分を描いた図面を求めてグルグル鬼《おに》ごっこをしている。  ウイスキイが全身に熱い酔いを広げた。もう一度眼をつぶると今度は昨夜の女が現われた。堅《かた》くつき出した乳首、くびれた腰、絵の中ではけっして見ることのできない陰《かげ》の部分がそこにあった。 「お布団《ふとん》をとったから、早く休みなさいな」  妻の声を聞いて桂介は腰をあげた。  桂介が幻《まぼろし》の女を見てからほぼ一年が過ぎた。桂介はしばらくの間またあの女が現われるのではないかと思い、何度か胸を弾《はず》ませてアパートのドアをあけたが、彼を迎えるのはいつも妻の今日子だった。  こうなるとあの夜の出来事はすべて過労から来る軽い神経|衰弱《すいじやく》のようなものだと考えるよりほかにない。掌で捕らえた滑《なめ》らかな肌《はだ》の感触も日時が経《た》つにつれて次第にかすかなものとなり、ふたたび実感としてよみがえることはなかった。桂介の意識の中からあの夜の記憶は少しずつ脱落して行って、いつしかアパートのドアを開くときにさえも女のことを思い出すことがなくなってしまった。  そんなある夜のこと桂介は相変らず夜遅くまで図面とにらめっこをして、それから酒を飲んでアパートへ帰って来た。ひどく風の強い夜で、車を降りると桂介は自分が吹き飛ばされるのではないかと思ったほどだ。  階段を昇り四階のドアの前に立つと、扉がすっと音もなく開いた。桂介は吸いこまれるように中へ入った。 「ただいま」 「はい」  桂介は全身の毛がいっせいに逆立《さかだ》つのを覚えた。玄関の様子がすっかり変わって、滑《すべ》るようにあの女が顔を出した。水玉のワンピースを着て、あの時と同じように髪を豊かになびかせている。 「暑かったでしょう。お部屋は冷えてるわ」 「あなたは……だれなんです」  女は桂介の顔をしげしげと見てから含み笑って、 「またそんなことを言う。今晩はお酒? お風呂《ふろ》は?」 「どっちもいらない」  部屋に入ると、レースのカーテンと豪華《ごうか》なベッド、枕《まくら》もとの電気スタンドにも記憶があった。  桂介は両の掌で頬《ほお》を叩《たた》いた。  夢ではなかった。桂介は少し酒に酔っていたが意識ははっきりしている。彼は窓辺に寄って外をのぞいて見た。動物の巣箱《すばこ》のような団地のアパートが素《そ》っ気《け》ない姿で並んでいるが、それも見慣れた風景である。 「どうしたの?」  女がうしろから桂介のそばに寄り添い、肩に首を載《の》せた。またしても甘い香水の香りが漂《ただよ》い、桂介の心が高ぶった。肩胛骨《けんこうこつ》の下のあたりで弾む乳房がグリグリと動いているのがわかった。  女は桂介が振り返ると待っている。舌の動きがあの夜の激しい肉の戯《たわむ》れを呼び起こした。  すべてが前と同じだった。水玉のワンピースをはぐと誇らしげな乳首があった。女の濡《ぬ》れた部分は、まるで海の生き物のように桂介の指先を飲んで震《ふる》えている。 「いや……いや」  あるかなしかの声が漏《も》れ、ベッドがきしみ、わずかな体臭が桂介の鼻《はな》をくすぐった。  情事《じようじ》が終わると女は水玉のワンピースをふたたびまとい、それから桂介の腕を枕《まくら》にして眼をつぶった。受け口の唇から軽い寝息《ねいき》が漏れ始める……。  桂介はといえば、眼が冴《さ》えてどうにも眠れそうもない。そっと女の頭の下から腕を抜くと玄関のほうまで足音を忍ばせて行って見た。  今朝家を出るときにはたしかに掛かっていたはずの絵がそこにない。桂介は二度三度自分の頭を叩いてみた。 「おかしい、いったいどういうことなんだ」  自分が発狂するのではないかとさえ思った。  寝室へ帰るとサイド・テーブルの上に鋭い果物《くだもの》ナイフが置いてあるのが眼に止まった。女は相変らずスヤスヤと眠っている。  桂介がなぜその女を殺す気になったのか、それは彼自身にもはっきりと説明できなかった。机の上に置かれたナイフを握《にぎ》ったとたん忽然《こつぜん》として心の底から込みあげて来た不思議な殺意だった。  強《し》いて言えば、そのナイフを突き立てた瞬間に、この謎《なぞ》の女の正体《しようたい》がすべて解き明かされるように思えたから……。いや、殺さなければ自分が狂ってしまう、そんな強迫《きようはく》観念のせいと言ってもよかった。  桂介はナイフを逆手《さかて》に握り、静かに眠っている女のそばに近づいた。 「えいっ」  ふっくらと盛り上がった左の乳房の下を目がけてナイフの刃を落とした。  ナイフは思いのほかたやすく女の胸を貫《つらぬ》き、みるみるワンピースの胸を赤く染《そ》めた。女はかすかに眼を開き、桂介を見た。 「き、君はだれなんだ?」 「…………」  女は答えずに首を振った。女の顔はすぐに色を失い、首が力なく白い肩に垂《た》れた。  この時になって桂介は、  ——殺すのではなかった——  と思ったが、もう間に合わない。  女を殺してみたところでなんの変化も起こらなかった。淡い光の中で蒼白《そうはく》な女が横たわり、その胸に大きなハイビスカスのしみが広がっているばかりだ。  桂介はワンピースのすそを開いてもう一度女の下腹《かふく》部を確かめた。谷間の花はいくらか色を失っていたが、その愛らしい風情《ふぜい》にも変わりがなかった。桂介は身を落としてそこに口づけをした。 「殺すんじゃなかった。もっとなにか聞いてみるんだった」  次第《しだい》に温かさを失っていく体を抱きながら何度かつぶやいてみたが、なんの甲斐《かい》もない。夢であればいい、と思った。しかし、それは確とした現実であった。  急に恐怖が背すじを撫《な》でた。 「そうだ、これは夢ではないんだ。俺《おれ》は人を殺したんだ」  うかうかしてはいられない。とにかく逃げなければ……と思った。  桂介はバスルームに行って腕についた血を洗い、それから洋服を着てもう一度部屋の中を見まわした。  家を出る前に女のそばに寄りそって、今はすっかり色あせた唇に最後の口づけをした。掌を見ると、まだかすかに血がついている。ポケットからハンケチを取り出し、ていねいにぬぐってから足音を忍ばせてアパートの階段を降りた。  薄明かりの戸外《こがい》には強い風が吹いていて、桂介はその突風《とつぷう》の中をユラユラと身を揺らしながら歩いた。 「これからどこへ行こうか?」  行く当てもなかった。  時計を見るともう四時を廻っている。一番電車も走り出す頃だろう。桂介はとにかくそれに乗ってみることにした。  空席だらけの電車に乗ってすわっていると、さすがに疲労が感じられ、いつの間にかウトウトと眠ってしまった。  次に眼をさましたときには電車は都心部を走っていた。桂介は電車を捨て、終夜店を開いているサウナ浴場《よくじよう》へ向かった。いぜんとしてなにがなんだかサッパリわからない。人を殺したという記憶はあったが、罪の意識は薄い。美しい草花を手折《たお》ったときの感触に近い。女は絵から抜け出した女ではなかったのか?  スチーム・バスで汗を流した桂介は浴場内の電話ボックスに入って自宅に電話を入れてみた。  リーン、リーン。  電話のベルが鳴っている。  やがて受話器をはずす音が聞こえた。受話器を握《にぎ》っている桂介の顔がこわばり、それから急にほっとしたようにゆるんだ。 「もし、もし、あなたなの?」  電話に答えたのは妻の今日子だ。 「うん」 「どこに泊まったの? 連絡《れんらく》してくれなきゃ心配するじゃない」  今日子の声はいつもと変わりない。 「なにか変わったことなかったかい?」 「べつに」 「そうか。いや、麻雀《マージヤン》に誘われちゃってな。今東京駅のスチーム・バスで汗を流しているところだ。これから仮眠《かみん》室で一眠りする」 「困るわ。無断|外泊《がいはく》は」 「すまん。つきあいだから仕方ない」 「ええ。でも体には気をつけてよね」 「うん、うん。会社にはここから直接出社する。今夜はあまり遅くならんように帰るから」 「はい」  桂介は電話を切った。  なにごともなかったのは結構《けつこう》だが、疑問は少しも解決されないまま残っている。  昨夜桂介は自分のアパートで女を抱き、女を殺し、そして逃げて来たのだ。それはどうなってしまったのか。  ——あれもやっぱり夢なんだろうか——  そんな馬鹿なことは考えられない。しかし、そう思うよりほかにない。  スチーム・バスを出て湯舟《ゆぶね》につかると疲れがドッと吹き出して来る。  眼を閉じるとまたしても軸受《じくう》けの設計図が浮かび、それがグルグルまわって立体的な軸受けに変わった。  ——それとも……やはり奇妙な能力が備わってしまったのだろうか——  続いて眼の奥に女の絵が映った。それも軸受けと同じようにクルクルとまわって生きた女の姿に変わった。くっきりとふくらんだ乳房が襟《えり》もとからこぼれ出している。  設計図を見るのは平面の中から立体を読み取る作業だ。何百枚、何千枚という図面を見ているうちに、いつしか平面の世界から立体の世界を想像し、その中へ忍び込んでいく道筋を覚えてしまったのだろうか。  思えばこの一年あまりはひどいいそがしさばかりが続いていた。  ——そんなこともあるのだろうか——  桂介は玄関に吊《つ》るしてある絵が今ごろどうなっているか、そのことが気掛かりになった。昨夜見当たらなかったが、どこへ行ってしまったのか。それもわからない。  風呂を出て仮眠室で少しまどろんだ。体が鉛《なまり》のように重たい。  しかし時計を見ると出勤の時間も間近い。急いでシェービングをすまし、洗濯《せんたく》に頼んでおいたワイシャツに着換えた。  外に出ると、やけに太陽の光がまぶしい。駅のあたりは通勤サラリーマンがいそがしそうに歩きまわり、いつもの一日が始まろうとしている。 「おはよう」 「おはようございます」  OLたちの姿にも変わったところはない。ただ桂介の心の中にだけ昨夜の奇妙な体験が残っていた。  しかしいったんデスクにすわるともうあれこれと奇怪《きかい》な想像をめぐらしているわけにはいかない。係員たちが次々に雑多《ざつた》な質問を持って来る。上役に呼ばれる。電話がかかって来る……。  桂介は額の汗を拭《ぬぐ》った。  ハンケチをポケットに戻そうとして手が止まった。  なんと……?  そこには明らかに血の跡とおぼしいものがしみついている。  アパートで桂介は体をきれいに洗って来たつもりだったが、最後に掌に血のついているのを知って、もう一度このハンケチで拭ったのではなかったか?  ——あれは夢ではなかった——  またしても意識の堂々《どうどう》めぐりが始まった。 「ただいま」  その日は少し早めに仕事を切りあげ、桂介はアパートのドアをあけた。  正面にはいつもと同じように水玉模様の女の絵が掛かっている。  桂介は昨夜このアパートでこの女に出会った。そして彼女を刺《さ》し殺した。  女がもし絵の中から抜け出したものならば絵の中の様子もどこか変わっているかもしれない——そんな馬鹿げた空想を抱いていたので、絵がいつもと同じようにそこに吊《つ》るしてあるのを見て桂介は少し拍子《ひようし》抜けのような気分を味わった。  しかし……気のせいだろうか。絵はたしかにそこにあったが、よく見ると絵そのものが変わっているように見えないこともない。一言でいえば、ひどく生気がないのだ。  ——もう少し鮮かな色ではなかったか——  桂介は妻に尋ねた。 「この絵、なんだか色が褪《あ》せたような気がしないか」  今日子はチラリと眼を送ってから、 「そうねえ。ドアをあけたとき西日《にしび》が当たるせいかしら」  さして気に掛ける様子もない。なるほど安い絵の具でかいた絵ならそんなこともあるかもしれない。少なくともそう考えるほうが自然である。 「なにか変わったことなかったかい?」 「べつに。ご飯は?」 「少し食べる」  食事の用意を待ちながら桂介は新聞を広げた。新聞の地方版には近くのあかね台団地で魚の不買《ふばい》運動をやっているという記事が載っていた。  あかね台団地というのは、駅を境にして桂介の住む団地とちょうど反対側にある団地である。 「あかね台団地へ行ったことあるかい?」  桂介は唐突《とうとつ》に妻に尋ねた。 「あるわよ」 「大きな団地か」 「ここより大きいわね」 「こことよく似ているかい?」 「団地はどこもおんなじよ」  桂介は思った。  あかね台団地にも十六号棟の四〇五号室がきっとあるだろう。自分があの女と会ったのは、実はそこではなかったのだろうか。酒に酔ってタクシーに乗り込み、運転手があかね台に連れて行ったのも知らずに自分は四〇五号室のドアをあけたのではなかったか。  桂介は新聞を置いて立ち上がった。 「ちょっと出て来る」 「どうしたの、急に。お魚焼けたわ」 「急用を思い出したんだ。すぐ帰るよ」  桂介の表情がけわしいので今日子もそれ以上は引き止めなかった。 「三十分くらいで帰るよ」  外に出た桂介はタクシーを止めた。 「あかね台団地まで」  駅の脇《わき》の踏み切りを越えて七、八分走ると目ざす団地に着いた。  初めて来たところだったが十六号棟はすぐにわかった。桂介はアパートの下に立って注意深く周囲を見まわした。  黒い闇《やみ》の中に並ぶ灰色のビルと無数の窓、窓、窓……。申しあわせたように黄色い光が漏れている。日本中どこへ行ってもほとんど変わることのない巨大な団地の風景である。  しかし、やはりあかね台団地はあかね台団地だった。桂介の住むところとは明白に異なっていた。  いくら酔っていたって間違えるはずはあるまい……。  桂介は階段を昇ってみた。  四階まで行って四〇五号室の前に立った。ちょうどその時ドアがあいた。  四〇五号室から出て来たのは若い男だった。男はドアを開いたまま、 「どうもお邪魔《じやま》しました」  と、中に向かって言った。家の中から夫婦らしい男女の声が聞こえた。 「またいらっしゃい」 「今度は奥さまとごいっしょに」  客が帰るところなのだろう。ちらりと瞥見《べつけん》したアパートの中の様子も桂介の記憶にあるものとはちがっていた。桂介はそのまま踵《きびす》の向きを変え黙って階段を降りた。  当然のことだ。いくら酔っていても自分の住むところとほかの団地をまちがうはずがない。それともどこかに桂介のすみかとそっくりのところがあるのだろうか。  帰り道桂介は駅で何種類かの新聞を買い求め、社会面を一つ一つ丹念《たんねん》に読んでみた。今朝未明どこか近郊の団地で殺人事件がなかったか? 団地ばかりでなくどこかで二十七、八歳の女が殺されていないか?  だがそんな事件はどこにもない。  桂介は訝《いぶか》った。  二度までめぐりあった女はどこのだれなのだろう。乳房の感触は今でもはっきりと覚えている。もっと淫靡《いんび》な部分の印象《いんしよう》さえも……。  それから水玉の胸に広がった血の色、虚空《こくう》を見つめた目差《まなざ》し、力なく開いた太腿《ふともも》のかげり……すべてが明晰《めいせき》に思い出されるというのに女はどこにも死んでいない……。  ——しかし、あのハンケチに染みついた血の跡は?——  家に戻った桂介は、さらに繰り返して玄関に掛かった油絵をながめた。 「やっぱり違っている」  絵の中の女にはやはり生気がない。先日までと同じように豪華なベッドの上に腰を落としていたが、それはただの絵、ただの平面にしかすぎない。 「昨夜までこの絵の中の女は生きていたんだ。それを殺してしまったんだ」  今日子の声が聞こえて夢想は破られた。 「ご飯が冷えちゃうわ」  桂介は箸《はし》を取りながら妻に尋ねた。 「玄関の絵のことだが……」 「ええ?」 「だれがかいたのかな」 「知らないわ。雅代さんが勝手に置いてったんですもの」 「最近彼女から手紙来たのかい?」 「ええ。このあいだも。ロスアンゼルスのホテルにしばらくいるって……」 「近く返事を書くだろ」 「ええ」 「じゃあ、あの絵をかいたのはだれだか聞いてくれよ」 「どうしたの?」 「うん。気になることがあって」 「なんなの?」 「案外高価なものかもしれない」  今日子に詮索《せんさく》されたくなかったので桂介は適当にごまかした。 「まさか」 「とにかく忘れずに聞いてくれよな」 「ええ」  食後風呂に入り十時過ぎに床に就《つ》いた。連日残業をしている桂介にとってはめずらしいことだ。  久しぶりに妻を抱いた。結婚五年目、子どもはなかったが妻の体にはあの女ほどの弾力《だんりよく》はない。新鮮さもなかった。妻の歓《よろこ》びさえも桂介にはかえって苛立《いらだ》たしいものに思えた。  彼は目を閉じた。ほとばしる一瞬、桂介はあの女を垣間《かいま》見たように思ったが、それもすぐに消えてしまった。  二か月ばかりしてロスアンゼルスの雅代から返信が来た。  手紙には町の情景やアメリカ人|気質《かたぎ》などについてこまごまと記してあり、最後にあの�水玉模様の女�の絵に触れてあった。  ——ところで桂介さんがお尋ねになった絵のことですが、私もあまりくわしくは知りません。かいた人についても正確なことはわかりません。たぶん死んだ父の友人の影山《かげやま》という人だと思います。  父の話を思い出すと、影山さんは将来を嘱望《しよくぼう》された有為《ゆうい》の画家だったようです。ところがいつの頃からか頭が少しおかしくなって「女が流れて行く」とか「俺が紙になってしまった」とかいつも奇妙なことをボソボソとつぶやくようになりました。  私の記憶が正しければ、最後は馬の絵をかいているときだったと思います。競馬《けいば》場に馬を見に行っているうちに競馬に熱中し、まるで狂人のように馬券を買いあさりました。不思議なことにそれがよく的中《てきちゆう》したとか……。もう十年近くも昔のことになりますが何百万円のお金を儲《もう》けた、と父が話しておりました。  それが原因かどうかわかりませんが、それと前後して病気はますます悪化し、病院にでも入れなければならないと思っていたやさきに、莫大《ばくだい》な現金を持ったままどこかへ行ってしまいました。いわゆる蒸発《じようはつ》というのでしょうか。弟さんがおられて、何度か警察に足を運ばれたようですが、結局わからずじまいでした。  お手もとの�水玉模様の女�の絵は、たしか馬の絵をかく直前のものだったと思います。影山さんの弟さんがいろいろお世話になったお礼として父のところにお持ち下さったような記憶がありますから……。  なお影山さんの弟さんは今でもK金属にお勤めのことと思いますので、くわしくはそちらにお当たりくだされば、なにかもっとくわしいことがおわかりになるかもしれません。  なんだかいろいろいわくのある絵ですが私は気に入っておりましたので、失礼を顧《かえり》みずお届けいたしました。お気に召さないようでしたら、どうぞご遠慮なくご処分《しよぶん》くださいませ——  桂介は二度三度手紙を読み返した。 �女が流れて行く�とはなんのことだろう? �俺が紙になってしまった�とは? なぜ影山という画家は競馬に勝つことができたのだろう? 最後の蒸発も気掛かりだ。あの絵の中に秘密があるような気がしてならない。  桂介は額ぶちから絵をはずして調べてみたが、どこといって変わったところはない。 「なんなの? 宝|捜《さが》し?」  今日子はあきれたような顔で桂介を見た。  桂介は黙って首を振った。  翌日桂介はK金属に電話をかけて影山氏の弟に当たる人が今でも在職しているかどうか確かめた。弟さんは同社の企画部に在職しており、その時は不在であったが、後で折《お》り返して電話がかかって来た。  桂介は影山画伯の絵を入手した経路《けいろ》を簡単に話し、それとなく蒸発前後の事情を尋ねてみた。しかし彼は雅代の手紙にあった以上のことはあまり知らなかった。  ただ一つだけ気になる話があった。 「兄が急に競馬に夢中になったんですがねえ。それがズバリ、ズバリとよく的中したんですよ。まったく恐ろしいほどでした。霊感《れいかん》というのか、未来をのぞき見たというのか、自分でもそんなことを言っていましたがねえ。本当に信じられないほどでした」と。  それからまた二年の歳月が流れた。  桂介は一児の父となり、設計課の係長から課長補佐に昇進した。いぜんとしていそがしいことはいそがしかったが、昔のように二六時中図面を見つめて暮すようなことはなくなった。課長補佐になったのを機会に団地を引き払って都内の社宅に引っ越した。二年の間の大きな変化といえば、せいぜいそんなところだろう。  もちろんあの女にめぐりあうこともなかった。アパートを去るとき桂介は女と出会ったこの部屋に奇妙ななつかしさを覚えたが、どうなつかしく思ったところでふたたび会えるものではない。  実際の話、月日がたつにつれ女の印象も稀薄《きはく》になり、文字通り夢の中の出来事と変わってしまった。  それでも時折《ときおり》思い起こして、  ——あれはなんだったのかな——  と考えないでもなかったが、やはり一種の神経症と断定するよりほかになかった。  そんなある日のこと、夕刊を読んでいた今日子が突然大きな声をあげた。 「あなた!」 「なんだい、急に……」 「あたしたちが前に住んでいたアパート、あそこで人殺しがあったんですって」 「えっ、どこ?」 「ほら、十六号棟の四〇五号室。あたしたちの部屋じゃない」  桂介は新聞を奪った。  殺されたのは若い人妻だった。  今朝早く果物ナイフで胸を突き刺されて死んだものらしい。  女は亭主が出張がちのことをいいことにして浮気《うわき》をしたり、コールガールまがいのことをやったりして、はでな生活を楽しんでいたようだ。加害者はそんな遊び相手の一人らしいが、手掛かりはまったく掴《つか》めていない様子であった。  殺された女の写真にも見覚えがあった。まさしくあの女のような気がした。  しかし、そのこと以上に次の証言《しようげん》が桂介の心を捕らえた。その証言は同じ団地の向かい側の棟《むね》に住む若い主婦のものだった。 「朝四時ごろ、四〇五号室のあたりから男の人が出て来るのを見たんです。それがまるで紙のように薄い……本当にそう見えたんです。紺色《こんいろ》の上衣《うわぎ》にネズミ色のズボンをはいて。階段をフワフワと風に吹かれるように降りて来て、……でも、その人、体を横にしたとたん急に見えなくなってしまいました。本当に薄い紙のように」  思い出してみれば、紺色の上着にネズミ色のズボンは、あの時の桂介自身の服装ではないか。  その夜桂介は布団《ふとん》の中でまんじりともせず考えた。  ——俺たちは立体の世界の中に住んでいる。しかし、そのすぐ近くに平面の、同じような世界が流れているのではあるまいか。影山という絵かきはなにかの方法で、そこへ入る道を見出したのではなかったのか? �俺が紙になってしまった�と、画家が言ったのはそのことではないのか。  平面の世界はどうやら俺たちの時間とは異なった時間を持っているらしい。その時間はほんの少しここより早く進んでいて……。だから、そこに立ち入れば未来をのぞくことができるのかもしれない。  影山という画家が競馬《けいば》に勝ち続けたのもそのためだったのではないのか。  そして自分が二年前にあの女を殺し、それが昨朝現実となって現われたのも……。  自分がその平面の世界にたやすく滑《すべ》り込んだのは、やはり図面と立体の世界を毎日行き来していたせいかな?  桂介は翌朝今日子に尋ねた。 「あの水玉服の女の絵、どうした?」 「すっかり色があせちゃったから、屑屋《くずや》へ売っちゃったわ」 「あの絵の女、俺たちの部屋で殺された女に似てると思わないかい? 新聞の写真を見てごらん」 「いやだわ。気持ちわるい」  桂介は眼を閉じた。  さまざまなイメージがすばやい速度で流れていく。あの女が見えた。彼女も紙のように薄かった。左の胸をまっ赤に濡《ぬ》らして紙の女はドンドン流れて行く。  そして、やがて薄よごれ、しみを浮かべ、クシャクシャによじれて消えてしまった。 [#改ページ]   俺《おれ》と同じ男  桜木町《さくらぎちよう》の駅で電車を降りると山本|吾郎《ごろう》は地下道を抜けて野毛山《のげやま》通りのほうへ向かった。  横浜にはどこか東京と違った風情《ふぜい》がある。盛《さか》り場を行く人の数も少ないし、デパートの隣りに特殊浴場のネオンが光っているのも東京では見られない風景だ。  商店街をしばらく歩くと、目ざす�春月《しゆんげつ》�はすぐに見つかった。白い杉板《すぎいた》の看板《かんばん》に�高級やきとり春月�と書いてある。一見したところそれほど高級とは思えなかったが、屋台に毛の生えたほどのやきとり屋が多い中では高級のほうかもしれない。  ガラス戸越しにそっと中を覗《のぞ》くと、客が二、三人店内にいるだけで、吾郎が求める男の姿はない。  時刻は八時。その男が現われるのは、おおむね九時過ぎだと言う。吾郎は町をひとまわりして来ることにした。  一か月ほど前、吾郎は高校時代の同級会に出席した。十年ぶりの同級会で、とりたてて変わったこともなかったが、ただ一つその席でおもしろい話を聞いた。  旧友の一人が吾郎をつかまえて、 「おまえ、横浜でよく飲むだろう」 「いや、横浜なんか知らないよ」 「嘘《うそ》つけ。野毛山通りの�春月�ってやきとり屋知ってるだろ」 「いや、知らん」 「おかしいなあ。おまえとそっくりの男が飲みに来るんだ。この前も声をかけようとしたんだが、俺のほうに取引先の客があったものだから……。本当に行かないのか」 「行かないよ」  友人の話によると、その男は�春月�の常連《じようれん》らしくて、一週間のうち三、四日はきまって店に現われるらしい。 「俺は最初見たときからおまえによく似てると思ったけどよォ、なにしろ十年以上も会っていないし、おまえの勤めも横浜に関係ないからな。他人の空似《そらに》だと思っていたんだよ」 「ああ」 「しかし、今晩会って見ると、まるでそっくりだよ。あんなに似たやつ、めずらしいなあ。驚《おどろ》いたよ」 「そんなによく似てるのか」  吾郎が少しおどけて顔をつき出すと相手はもう一度まじまじと吾郎の顔を眺《なが》めて、 「うん、そっくりだ。嘘だと思うなら自分で確かめてみろ。夜の九時過ぎに来る」  こう言ってタバコの箱の裏にわざわざ�春月�の地図をかいてくれた。  自分とそっくりの人間がいる——事実だとすれば、いささか気味がわるい。いったいどのくらいよく似ているのだろうか。吾郎は一度その男に会ってみたいと思った。それで、たまたま川崎まで用があったついでに横浜まで足を延《の》ばしたというわけだ。  町をブラブラとめぐって�春月�の前に戻《もど》って来ると八時四十五分になっていた。  吾郎はサングラスとマスクをかけて店の中へ入った。 「いらっしゃいませ」  店の者はいっせいに吾郎のほうを見たが、べつにそれ以上は気に留《と》める様子もない。味本位で、無愛想《ぶあいそう》な店なのだろう。吾郎は一番奥まったところにすわって酒を注文した。  酒を酌《く》みながら自分の物好きを苦笑した。似ているといったところで所詮《しよせん》他人の空似だ。当人が見てつくづく感心するほど似ているはずもない。こんなわかりきったことを確かめるためにわざわざ電車に乗って来たのかと思えば馬鹿らしい。第一、その男が現われるかどうか、それだってはっきりしていない。  そう思ったとき、 「いらっしゃいませ」  店員が声を掛けた。  縄《なわ》のれんが揺れ、グレイの背広の男が肩をすぼめるようにして店の中へ入って来た。  吾郎はその男の顔を見て、思わず声をあげそうになった。  それも無理はない。  その男の風采《ふうさい》は、どこからどこまでも吾郎自身に似通っていた。少し吊《つ》り上がった目、段を作った鷲鼻《わしばな》、薄い唇《くちびる》、顔の造作《ぞうさく》ばかりではなく、一つ一つの動作までよく似ている。  吾郎は身震《みぶる》いをした。  こんなにそっくりの人間が世の中にいるものだろうか。 「いつものやつ、頼むよ」  声までそのままだ。  その男はカウンターに席を取ってビールを飲み始めた。吾郎は背広の襟《えり》を立てサングラスの下からもう一度ゆっくりとその男を観察した。  年齢は三十歳くらい。これも吾郎とほぼ同じだ。小ざっぱりとした服装から判断して水準以上の生活をしている男のように思った。 「しばらくお見えにならなかったですね」  店員が言うと、 「うん、出張が多くてね」 「そりゃ大変ですね」 「明日からまた関西だ」 「奥さんがさびしい、さびしいって泣きますよ」 「それはないよなあ」  男が笑った。  笑い顔も酷似《こくじ》している。いや、酷似と言うより吾郎がすわってそして笑っている、と言ったほうがいい。  男はビールを一本、やきとりを一皿たいらげると立ちあがった。 「ご馳走《ちそう》さん。勘定《かんじよう》ここに置くよ」  男が店を出るのを見て吾郎も勘定を払って外に出た。  その男は店を出たところで立ち止まってタバコに火をつけ、ゆっくりと歩いている。吾郎はなんとはなしにその男の跡を追ってみた。自分にそっくりの男が、どこでどんな生活をしているか知ってみたかった。  男の住まいはそう遠くはなかった。  大通りを二つ越したところに白い瀟洒《しようしや》なマンションがあって男はそのエレベーターの中へ消えた。  エレベーターは三階で止まった。  吾郎が階段を駆《か》け昇って廊下《ろうか》を見ると、男はドアの前に立って牛乳箱の裏に手を入れている。  それから鍵《かぎ》をあけて中へ吸い込まれた。  吾郎はドアの前に立った。表札には�田辺《たなべ》�と記してある。それが吾郎とそっくりの男の姓なのだろう。  二、三分たたずんでいたが、それ以上はべつになにをするというわけにもいかない。すぐに踵《きびす》を返してエレベーターを降り、マンションを出ようとした。  その時目の前にタクシーが止まって中から女が出て来た。  女は花柄《はながら》のブラウスに紫のパンタロンをはいている。美しい女だ。これだけいい女というのもめずらしい。さながら夜の中から妖《あや》しい花が浮き出したようであった。  女はエレベーターの中へ消えた。  エレベーターの指示|盤《ばん》の灯《あか》りが点滅《てんめつ》して三階に止まった。 「田辺という男の女房じゃなかろうか」  なんとなくそんな気がする。  吾郎はもう一度階段を昇った。 �田辺�と記したドアに耳を寄せると、中からかすかに女の声が聞こえる。会話の様子からたった今帰ったところと判断してよさそうだ。やはりこの家の女だったらしい。  女の姿が浮かんだ。 「きれいな女だった」  吾郎はつぶやきながら、あらためて周囲を見廻した。  豪華《ごうか》に作られたマンションである。  この優雅《ゆうが》な環境の中で、自分とそっくりの男があんなに美しい女と一緒《いつしよ》に暮らしている。  こう思うと激しい羨望《せんぼう》が胸の奥で蠢《うごめ》いた。  それから二日たった。  山本吾郎は会社の同僚と居酒屋で酒を飲み、一人住まいの安アパートへ帰ろうとして新橋駅の改札口を抜けた。 「間もなく横須賀《よこすか》線の下り列車がまいります」  スピーカーの声を聞いたとたんアパートへ帰るのをやめ、急いで横須賀線のホームへ駈《か》けあがった。わけもなく横浜へ行ってみたくなった。 「行ってどうする?」  なにか目算《もくさん》があってのことではない。  あの田辺という男の妻の前に、自分が姿を現わしたら女はどんなに驚くだろう。もしかしたら見間違うかもしれない。当人が驚くほど似ているのだから、ありえないことではない。  脳裏《のうり》に花柄のブラウスと紫のパンタロンが浮かんだ。  女は小柄だったが、よく均斉《きんせい》のとれた体だった。あのブラウスの中にはどんな乳房があるだろう。パンタロンの下にはどんなしなやかな脚《あし》が伸びているだろう。  女の顔は、一瞬|垣間《かいま》見ただけだったが、どこか淫蕩《いんとう》な妖《あや》しさがあったようだ。  ——夜、そっと女のベッドの中へ忍び込むことができたら——  キクンと身を硬《かた》くした。  ——そうだ、田辺という男は�また出張だ�と言っていた。今晩はあの女が独《ひと》りで眠っているのではあるまいか——  それに……吾郎は男がドアの前でしきりに牛乳箱を探っていたのを思い出した。  ——多分あそこに鍵《かぎ》が隠《かく》してあるにちがいない——  初めはただの空想だった。  だが桜木町で電車を降り女のマンションへ近づくにつれ、それがもっと現実感のあるものとして心のうちに盛り上がって来た。  腕時計を見た。時刻はもう十一時を廻っている。 「まあ、いいさ。とにかく行くだけ行ってみよう」  酒の酔いが吾郎を大胆《だいたん》にした。  マンションの三階に昇りドアの外から気配《けはい》を察したが室内はひっそりとしている。牛乳箱の裏を捜《さが》したが鍵はない。  吾郎は軽い失望を覚えた。 「しかし……鍵があったところで、まさか開けて入るわけにもいかないじゃないか」  こう独りごちて二、三歩エレベーターのほうへ戻りかけたときエレベーターのドアが開いて中から女が現われた。  ——あの女だ——  そう思ったとき、女も吾郎を認めていた。 「あら、出張じゃなかったの?」  女は暗い廊下に立っている吾郎を夫と間違えたらしい。 「ああ」  とっさにつぶやいた。 「待って。今、鍵を出すから」  女は先に立ってドアを開けた。 「あの……」  小さく呼び掛けたが、女はどんどん部屋の奥へ入って電燈をつけた。吾郎は足が小刻《こきざ》みに震えたが、それでも女のあとに続いてマンションへ入った。 「ああ、疲れちゃった。麻子《あさこ》のとこへ行って遊んで来たの」  女はふり向こうともせずにネックレスを取り、ワイン・カラーのワンピースを脱ぎ、スリップを落とした。 「これ、はずして」  ブラジャーのホックを吾郎のほうに向けて甘い声をあげた。  それからは成行《なりゆき》だった。  吾郎がホックをはずすとカップの下から二つの白い乳房が弾《はず》んで顔を出した。乳首が紅潮《こうちよう》して丸くなっている。  女は背を預けたままかすかに首を返して見上げた。目が妖しく笑っている。少しも疑っていない。  それから下唇を突き出すようにして眼を閉じた。  吾郎は迷ったが、体の底から込み上げて来る欲望に抗しきれなかった。  唇を重ねると女の熱い舌先が中へ入って来た。口の中で二枚の舌がもつれる。指先が乳房にかかると女の口からため息が漏《も》れた。 「出張はどうなったの?」  吾郎は答えなかったが女はそれ以上尋ねようとしない。 「あら、ネクタイ新しくしたのね」  女は近視なのだろうか、視線をすぼめるようにしてネクタイを指先にからめた。  吾郎は大胆になり、パンティの中へ掌を忍ばせた。肌《はだ》は絹《きぬ》に触《ふ》れるみたい。  臀部《でんぶ》の冷ややかな感触が手に伝わり、その底は火のように熱い。  吾郎は頭が熱くなった。  このまま進みたい。欲情に燃えた女が半裸《はんら》の姿で身を投げかけている……。  しかし、このまま見破られないで最後まで行きつくはずもあるまい。  さりとて手を離すのは惜しかった。 「あ」  女が声を発した。  吾郎の指先が前にまわり、恥毛《ちもう》の下の溝《みぞ》を捕らえた。  女は立っているのが耐えられない。吾郎の首に体を軽くぶらさげている。  奥のドアのすき間から寝室のベッドが窺《うかが》えた。吾郎は女を抱きかかえるとドアを足で蹴《け》って入り、ベッドの上に白い体を横たえた。  女は一瞬ハッとしたように眼を開けて吾郎を見たが、すぐに目を閉じた。  どこかあの男と仕ぐさが違うのだろう。  だが、寝室は暗かった。  女は燃えていた。  それに、なによりもこんなによく似た二人の男がこの世に生きているなんて、だれも想像することができない。  吾郎は女のパンティを奪《うば》った。  薄闇《うすやみ》の中に女の全裸の姿があらわになった。  女は踵《かかと》をシーツにこすりつけるようにして激しく足を動かす。  吾郎は手早く自分の服を脱ぎ、女の上に重なった。  女はまたしても訝《いぶか》しそうに目を開いた。それをさえぎるように唇を強く吸い、細い体を抱き締《し》めた。  吾郎は急いだ。  そして女の体を上からきつく固定したまま耳もとに囁《ささや》いた。 「ねえ、君」 「え?」  その瞬間《しゆんかん》に体液を放った。 「僕はあなたの夫ではないんだ」  女は吾郎の言った言葉の意味がすぐにはわからなかったようだ。  抱きあった姿勢《しせい》のまま眼を大きく見開いて吾郎の顔をしげしげと眺めた。  急に激しい力で押しあげた。 「あなた、あなた……じゃないの?」 「そう。わるいけど、あなたじゃないんだ」  考えようでは、この世にこれほど無意味で残酷《ざんこく》なことはそうめったにあるものではない。  女はそれでも信じられない。  身を起こしながら毛布で体を包み、もう一度|凝視《ぎようし》した。  眼で見る限り彼女にも二人の差異を見きわめるのはむつかしそうだった。  女の上体がグラリと揺れ、ベッドの上に崩《くず》れた。 「どうしました?」  軽いめまいらしい。  女は取りすがるようにベッドの背を押さえ体を寄りかけ、 「失礼な……帰って!」 「すみません」  吾郎はペコリと頭をさげ、あたふたと服を着始めた。  シャツのボタンを留めながら思った。  ——ここで彼女が人を呼んだら自分は罪を犯《おか》したことになるのだろうか——  だが女は大きな声をあげようともせず黙って吾郎の動作を見つめているだけだ。 「どうも……」  恐縮《きようしゆく》して部屋を出ようとすると、 「待って」 「えっ?」 「ちょっと待ってちょうだいよ」  女は頬《ほお》に乱れた髪をかきあげ、それから戸惑《とまど》うように笑った。怒りは大分薄らいだようだ。 「そっちの部屋で少し待ってらしてくださいな」  吾郎のほうが不安になったが、  ——なに、相手は女一人だ。こっちが怖《こわ》がることもない——  言われるままに寝室を出てリビングルームのソファに腰をおろした。  女は服を着ているらしい。  待つほどもなく女は長い水色のガウンをまとって現われ、部屋のライトを一番明るい照明に切り換えた。 「信じられないわ」 「僕も信じられなかった」  吾郎はやきとり屋で自分とそっくりの男に出会ってから今晩までの出来事《できごと》を簡単に説明した。 「でも、ひどい。あんなときまで黙っているんだから」  女はあきれたように笑った。  たった今、この女の白い裸形を抱いたのが嘘《うそ》のようだ。 「あなたがあんまりきれいなもんだから……つい我慢ができなくて」 「いやあねえ。本当によく似ている。声まで同じなんだから」  女は気味わるそうに見つめている。 「そうなんです」 「お名刺《めいし》いただけないかしら?」 「えっ?」 「もうこれっきりのほうが都合《つごう》がいいの?」 「いや、そうでもないけれど」 「他人みたいな気がしないの。少しご相談したいこともありますし……」 「なんですか」 「今は駄目《だめ》。頭が混乱しちゃって……」  女はもう完全に気を取り直していた。言葉の調子が冷静になっている。思いのほか度胸《どきよう》のいい女なのかもしれない。 「じゃあ名刺を置いて行きます」 「ありがとう。こちらから連絡します。今夜は帰って。もう疲れちゃって……。頭がおかしくなりそう」  女はタバコを取り、頭を揺すりながら胸いっぱい深く喫《す》い込んだ。そうすれば理性の困惑《こんわく》が解消されるかのように……。  もう東京へ帰る電車はなかった。  吾郎はタクシーを拾った。  川崎付近を通るときキューポラの火が悪鬼《あつき》の舌のように天を焦《こ》がして揺れているのが見えた。その輝きの中に吾郎は何度か今夜の情事を映し出してみた。  女の名は冬子《ふゆこ》と言った。  帰りぎわにはもう彼女の怒りは消えていた。むしろ出来事の奇抜《きばつ》さを楽しんでいるふうにさえ見えた。  女の話から察すると、彼女の夫は小さな会社に勤める平凡な男らしい。 「人並み程度の生活ができるのは、親の遺産《いさん》があるからなの……。でも財産なんて当てにならないわね。使えばすぐに減ってしまうんだから。私は無駄使い屋さんだし」  冬子は打ち解けて、こんな立ち入った事情まで語った。  吾郎が名刺を渡すと、近視の眼で見|据《す》えてから、 「近く電話します。会ってくださるわね」 「もちろん」 「一つだけ約束して」 「なんですか」 「だれにも話さないで。今夜のことはもちろん、あなたそっくりの人がいることも」 「話しやしませんよ」 「それくらい約束してくれてもいいわよね、今夜の罪のつぐないとしては」 「そういうことです」 「職場のかたにも、だれにも話しちゃ駄目よ。そのほうがあなたにとっても悪くないと思うわ」  冬子は媚《こび》を含んだ目差《まなざ》しで睨《にら》むようにしてつぶやいた。  吾郎はもう少し質問をしようとしたが、冬子が唇に指を当て、 「じゃ今度お会いしたときに」  と言いながら、まるで客人《きやくじん》でも送り出すように吾郎の靴をそろえた。  ——いったい冬子は俺になにを頼むつもりなんだろう?  吾郎は車の中で想像してみたが、うまく思い当たることもない。  ——まあ、頼まれたら頼まれたときでいいさ——  それよりもいましがた抱いた女の熱い肢体《したい》を一つ一つ心に思い浮かべ、しっかりと記憶に残しておきたかった。  どこか猫みたいな女だと思った。  体はしなやかで美しい。  顔つきも優美な猫の表情に似ている。  おそらく性格も猫のように誇《ほこ》り高く、残酷な部分があるのではなかろうか。なんとなくそんな気がする。恥毛の感触も猫を撫《な》でるようだった。  それから一週間ほどたって冬子から電話がかかって来た。 「もしもし、冬子です」 「あっ、どうも」 「お変わりもなく?」  まるで数年来の知己《ちき》みたいに冬子は心やすい。 「ええ、まあ」 「あの、今晩でもお会いできるとうれしいんだけど」 「いいですよ」 「何時ごろならよろしいんですの?」 「東京ですか、横浜ですか」 「赤坂《あかさか》のHホテルに来てるんです」 「じゃ、ホテルのロビイに六時頃、どうですか」 「わかりました」 「じゃ、それまで。さようなら」  口笛《くちぶえ》の一つでも吹きたい気分だった。午後の仕事がやけに長く感じられ、何度も何度も腕時計を見た。  会社が退《ひ》けてからHホテルへ行くと冬子は先に来て待っていた。 「どうも遅《おそ》くなりました」 「お食事は?」 「まだです」 「それじゃここのレストランで」  二人は恋人同士のように寄りそってエレベーターに乗り、展望《てんぼう》のきくレストランで夕食を取った。  冬子はチェックのジャケットに濃《こ》い栗色《くりいろ》のスカート。シックな装いがよく似合う。  食事が終わると冬子が言った。 「お部屋《へや》へ行きません?」 「えっ?」  部屋に入ると冬子がくるりと振り向いて吾郎を見上げる。  それが合図《あいず》ででもあるかのように吾郎が唇を捕らえた。 「愛して」  口づけを交《か》わしながら吾郎の指が冬子の上着のホックを捜《さが》した。 「自分で脱ぐわ」  冬子は腕をのがれるとベッドのすそに立ってすばやく衣服を脱ぎ、純白のスリップのままダブル・ベッドの中へ潜《くぐ》り込んだ。 「ちょっとシャワーを使って来る」  吾郎は備《そな》えつけのパジャマを持ってバスルームに入り汗を流した。  ベッドの中で冬子は目を閉じていたが、吾郎が横へ滑《すべ》り込むと小さくうずくまるようにして腕の間に身を寄せて来た。  スリップの感触に負けない滑《なめ》らかな乳房があらわになった。 「あ」  動きにつれ冬子の唇から声ともため息ともつかない響きが漏れた。吾郎が身を翻《ひるがえ》してひそかな部分に口づけをしようとすると、冬子は捕らわれた獣《けもの》みたいに足をバタバタと動かしてもがいたが、それもそう長い抵抗ではなかった。 「あ、いや」  意味のない言葉を吐き、両手が吾郎の頭をしっかりと押さえた。体臭が漂い、暗い光の下で花が開いた。  二人は無言のまま体を重ねた。  冬子は小さな声をあげ、腰を高くあげて身をそらす。三度目の緊張《きんちよう》が冬子の体を揺るがせたとき、吾郎もエクスタシィを迎えた。  二人はベッドに寝転がったまま天井にタバコの煙を吹き上げている。 「何か話があるって言ってたが……」 「そう。きいてくれる? 大変なお願いよ」 「なんだい?」  冬子はタバコをもみ消しながら呟《つぶや》いた。 「彼を……夫を殺してほしいの」 「えっ」  吾郎が目を見張った。冗談《じようだん》にしては声に押し含んだような無気味《ぶきみ》さがある。 「冗談だと思うでしょう。でも本気よ。驚いた?」 「うん」 「殺してくれる?」 「しかし、それは……」 「意外といくじがないのね」 「いや、しかし……なにもそんなに……。もう少し理由を聞かせてくれないかな」 「理由を聞かせれば、OKしてくれるの?」 「…………」 「そうでもないんでしょ。理由を聞いたからできるってものじゃないわ。勇気の問題。愛情の問題って言ってもいいけれど……」 「それはそうかもしれないけど」 「理由はネ、簡単よ。あの人が私を愛していないから。私があの人を愛していないから。顔はよく似ているけれど、私、あなたのほうが好きになりそう。体もよく合うし……」 「しかし、それだけの理由じゃ」 「くどくど説明すればいろいろあるけれど、そんなこと今ここで言いたくないの。心の中の憎しみまでわかってもらえないわ」 「それはそうだろうが……」 「わりと煮《に》えきらないタチなのね」 「そうでもないけど、これだけの重大事となると……」 「フフフフ」  冬子があざけるみたいに笑った。 「そりゃそうよね。本当のことを言えば、あなたに殺させたりしないわ。私がやります。ただ……自惚《うぬぼ》れかしら? あなたに�君のためならやりましょう�って言ってほしかったの。わかる?」 「…………」 「一番危険なことは私がやるわ。他人に頼むのは虫がよすぎるものね。ただ、あなたには、そのあとしばらく私といっしょに暮らしていてほしいの。一年でも、二年でも。よければ一生でも。こう言えばもう見当《けんとう》がつくでしょう。主人の死体が見つかっても、あなたが私といっしょに暮らしている限り問題にならないわ。主人には係累《けいるい》もなければ親しい友だちもいないの。実は、わるいけどこの二、三日の間にあなたの身元《みもと》も全部調べてもらったの、興信所《こうしんじよ》に。あなたも係累の少ないかたね」 「ええ、まあ。両親は死んでるし、兄弟はもともといない」 「彼には財産があるわ。一生遊んで暮らせるくらいわね。それをかさに着るからいやなんだけど……。つまらない男なのよ。あなたと二人で生きていくほうが楽しそう。ヤッパリ一目|惚《ぼ》れなのかなあ」 「財産はどのくらいあるんですか?」 「たくさん。土地もあるし。わるくないでしょ。今までの人生を捨てて私のほうへ乗り換えてみない?」  冬子は吾郎の胸に顔を寄せた。ベッドの上掛けがめくれ、白い乳房とピンと張った乳首が見えた。 「話がうますぎるような気がする」 「あなたにとって? 私にとって?」  吾郎が黙っていると冬子が続けた。 「私はあなたに賭《か》けてるのよ。わかる、その決心が……。あなたは私のことを大胆に欺《だま》したわ。私、そんな男が好きなの。頭のきれない男は生理的にいやなの。狼《おおかみ》生きろ豚《ぶた》は死ね、かしら。この計画は絶対に失敗しないわ。だれだってこの世にこんなによく似た二人がいるなんて思わないもの」  吾郎は一言、一言説得され、深みにはまっていく自分を感じた。 「ね、聞いて」 「ああ」  冬子が立ちあがってベッドのすそに置いたガウンに腕を通した。  ベッドの上に横すわりになって、 「二晩ゆっくりと考えたことなの。主人はよく私に車の運転をさせて自分はウイスキイを飲むの。その中に睡眠薬《すいみんやく》を入れておいて眠ったところで私が絞《し》めるわ」 「女の力で大丈夫《だいじようぶ》かな」 「できるわ。さっきも言ったでしょ。一番危ないことは私がやるって。あなたにはさせないの」  冬子は無邪気《むじやき》といっていいほど悪戯《いたずら》っぽい目差《まなざ》しで言う。 「それで?」 「それから伊豆《いず》の西海岸にとてもすばらしい絶壁《ぜつぺき》があるの。景色がよくって水が青くて。そこから下へ落ちると潮《しお》の加減で絶対死体があがらないんですって」 「そこに捨てるわけか」 「そう。その時だけあなたに手伝ってほしいわ。女の力じゃ無理だから」 「万一死体があがったらどうする?」 「失踪《しつそう》届けがないかぎりどこのだれかわからないわ。識別《しきべつ》のできそうな所持品は全部取っておくから。なお用心のためあなたの下着を着せておいてもいいの」 「場合によっては僕が死んだことになるわけか」 「そう。いいでしょ。死体が見つかる可能性はほとんどないし。下着からあなたがつきとめられる可能性も少ないし……。あなたがつきとめられてもなにもわからないし」  冬子は甘えるような仕ぐさで胸にもたれかかった。帯《おび》のないガウンの前が割れて足のつけ根の黒い部分がサクリと開く。 「僕はあらかじめ失踪《しつそう》でもしておくわけかい?」 「そう。どこか関西のほうで新しい仕事でもすることにして会社をやめ身辺を整理しておいてほしいの」 「友だちなんかは?」 「みんな見捨ててほしいわ、あたしのために。いまに新しい友人ができるわよ」  たしかに吾郎は係累《けいるい》の少ない境遇《きようぐう》だった。二、三の親類があるが吾郎がどこかへ行ったところでなんの関心も抱くまい。友だちも冬子と引き替《か》えならば捨てても惜しくない。 「よし、わかった」 「協力してくれるわね」 「ああ」 「うれしい」  冬子はゆっくりと頬笑《ほほえ》んだ。  それからガウンを脱いで全裸のまま身を預けた。まばゆい光の下で……。あますところもなく体を開いて……。 「うれしい、うれしい」  声をあげて吾郎の背中に爪《つめ》を立てた。  やがて静まったベッドの中で吾郎が尋ねた。 「それで……いつやる?」 「早ければ早いほどうれしい」 「一週間で身辺の整理をしよう」 「少し早すぎやしない? 不自然にならないよう注意したほうがいいわ」 「じゃあ一か月」 「来月の今日またここで会いましょ」 「よかろう」 「今のアパートを引き払ったあとは、横浜のNホテルにでもいて。そのお金は用意しますから」 「馬鹿にするな。そのくらいのお金なら僕だってある」 「ゴメン」  吾郎はもう一度冬子の弾《はず》む体を抱き寄せた。  偶然《ぐうぜん》が生んだ殺人計画だった。  吾郎は一か月のうちに会社をやめ身辺の整理をすませアパートを引き払って住居をホテルに移した。  犯行の日が決まり冬子が最後の打ち合わせにやって来た。 「田辺の服を持って来たわ」 「いよいよ入れ替《かわ》りだな」 「それからこれが西伊豆の断崖《だんがい》のところの地図。あなたは下田のSホテルにいて私からの電話を待ってほしいの」 「それで?」 「それからタクシーかバスで西海岸まで行ってほしいわ。多分夜の十一時過ぎくらいかな。崖《がけ》のところで待っていて。人に見られないようにね」 「この×印のところだな」  吾郎が地図の一点を指差した。 「そう。車がギリギリのところまで入れるから、懐中《かいちゆう》電燈で誘導《ゆうどう》してほしいわ。懐中電燈を忘れずに持って行ってね」 「わかった。この地図は正確だね」 「間違いないわ。一度下見に行ってもいいけどウロウロしないほうがいいと思うし。その地図で大丈夫よ」 「うん、よかろう。ご主人はなにも気づいてないかい?」 「気がつくわけがないでしょう。それよりあなたこそ大丈夫? 蒸発《じようはつ》の下準備は」 「ホテルで何度も考え直したけど手抜かりはない。二、三の友だちには近く小さな貿易《ぼうえき》会社に勤めて外国へ行くと言っておいたし、音信不通になってもだれも親身になって心配してくれる人はいないな」 「そう」  二人はもう一度計画の細部を確認しあった。 「OKだ」 「きっとうまくいくわ」 「前途を祝して一ぱい飲むか」 「まだ早いわ。それに今のところ二人でチョロチョロ歩きまわるのはよくないわ」 「じゃあ、この部屋の中でお祝いだ」  吾郎が手首を取ると、冬子は「まあ」とばかり眉《まゆ》を吊《つ》りあげたが拒《こば》もうとはしない。 「彼が憎いって言ってたね」 「ええ。仕返ししたいの」 「どうして?」 「それは聞かない約束だったでしょ。恨《うら》みがあるの」 「殺したいほどの恨みってなんだろう?」  冬子がキッと唇《くちびる》を引き締めて見返した。 「約束して、もう一度。そのことは一生尋ねないって」 「わかった。ただ僕にそっくりの男を憎んで、それでいながら僕に好意を持つってところがよくわからなくて……」 「彼の顔や姿が憎いんじゃないの。だからあなたを好きになるのはむつかしくないの。さ、愛して」  冬子は目を閉じて唇を突き出した。  吾郎は下田のSホテルで冬子からの電話を待った。ジリジリするような数時間が過ぎて、六時少し前に部屋の電話がようやくベルを鳴らした。 「もしもし、冬子」 「ああ、僕だ」 「これから横浜を出ます」 「ご主人は?」 「もうすみました」 「すみました?」 「そう、みんなすんだの、予定通り。じゃあ十一時頃約束の場所で」 「わかった」 「懐中電燈で先導してくださいね」 「うん」 「では、その時。さよなら」 「気をつけて」  電話が切れた。  気がつくと額《ひたい》に汗が流れている。室内はほどよい温度だというのに。 �みんなすんだの�とは�もう殺した�という意味だろうか?  多分そうだろう。賽《さい》は投げられた。これからは計画通りにひた走りに走るよりほかにない。  吾郎はバスで西海岸まで出ることにした。  バスは一時間ほど山間を走り抜け、次に海の香《か》が匂《にお》ったときには外はすっかり暗くなっていた。  指定のバス・ストップで下車して、それから海岸沿いの砂利《じやり》道を南へ向かって一キロほど歩いた。  暗い夜道だが、地図がくわしいので目ざす断崖《だんがい》まで行くのはさほど困難ではない。古い神社の脇《わき》を折れると、あとは自動車がかろうじて通れるほどの一本道が続き、松林が切れるとそこが断崖のふちになっていた。  空にうっすらと月がかかっているので、その光を頼りに周囲を見渡すと、たしかに目がくらむほどの絶壁だ。岩が両側にせまっていて道幅は二メートル足らず。そのまま崖《がけ》のへりまで来てストンと道が切れ、はるか下のほうで波のざわめく音が聞こえた。地形を知らずに歩いて来たら、うっかり海に落ちてしまいそうだ。  大きな石を拾って落としてみると、一、二秒たって水音が聞こえた。今は干潮時《かんちようじ》。潮が満ちて来れば間違いなく死体は持って行かれるだろう。  吾郎は闇《やみ》の中で待ち続けた。  冬子の車は待っても待っても現われない。  ——なにか手違いがあったのではあるまいか——  次から次へと不安が湧《わ》いて来る。  殺したと思った夫が、実はまだ死んでいなくて車の中で息を吹き返したら、どうなるだろうか。  ——女の力では無理だったのではないか。どうせここまでやると決めた以上、俺がやったほうがよかったのでは——  あるいは横浜からここまで来る途中でだれかに死体を発見されるというケースもありうる。ガソリン・スタンドで油を入れるときに助手席の死体が見つかるかもしれない。スピード違反をやってパトカーの注意を受け、そこで同乗者の異変が看破《かんぱ》されることもある。  待つ身はつらかった。  何度も何度も時計を見た。十一時を過ぎたが、まだ車は現われない。  吾郎は県道のほうへ引き返した。  二十分ほどして小走りに崖っぷちへ戻って来た。  耳をそばだてると車のエンジンの音が聞こえた。  横浜の冬子のマンションの三階では華《はな》やかなパーティが開かれていた。  シャンペンの壜《びん》がポンと景気のいい音をあげてキルクを飛ばす。集まった女たちがグラスをあげる。 「誕生日《たんじようび》おめでとう」 「カンパーイ」  グラスがチンチンと涼《すず》しい音を鳴らした。 「このケーキ、手作り?」 「そう」 「すごい。冬子に台所の才能があるなんて信じられないわ」 「ううん。私が手伝ってあげたのよ。午後からずっとつききりで冬子を指導したの」 「道理《どうり》で」 「失礼ね」  パンタロン姿の女が眉《まゆ》をしかめた。冬子だった。  冬子は吾郎と西伊豆の海岸で落ちあうことなんか、すっかり忘れたみたいにはしゃいでいる。 「せっかくの冬子の誕生パーティなのに、ご主人は参加しないの?」 「あんなの、いないほうがいいのよ」 「へえー。どこへいらしたの?」 「たぶん魚釣りじゃないかしら。伊豆の西海岸あたり」 「浮気《うわき》じゃないかしら」 「あるいはね」  冬子が笑いながら答えた。 「まさか。彼、冬子にゾッコンまいっているんだから」  女たちのおしゃべりはいつやむともなく続いた。  冬子は時折《ときおり》時計を見た。  二本の針《はり》が九時をさし、十時を過ぎ、十一時をまわった。  女たちは泊《と》まりがけで遊びに来ているのだろう。コーヒーを飲み、ケーキをつまみ、カクテルをすすり、にぎやかに騒いでいる。  その頃——西伊豆の暗い崖のふちで吾郎が冬子の車を待っていた。  約束の時間を少し過ぎたとき、岩に挟《はさ》まれた細い道に車のライトが浮かび、ゆっくりと近づいて来た。 「来た!」  車が三度ライトを点滅《てんめつ》して約束の合図《あいず》を寄こした。  吾郎が懐中電燈を大きく廻して答えた。  車は崖の十数メートル手前で止まった。 「待って。崖のふちのところに懐中電燈を置いて誘導してほしいわ」  女の声が聞こえた。  吾郎は言われるままに懐中電燈を置いた。 「オーライ、気をつけて」  そのとたん車がスーッとスピードをあげた。 「危ない!」  こう叫ぼうとしたが、それより早く車が近づく。崖っぷちで黒い影がもんどり打った。  数秒後、車のドアがあいて赤い衣裳《いしよう》の人影が現われた。女のように見えたが、かつらを取るとまぎれもない男の顔だ。しかも、その男の顔はさっきからずっとここに待っていた男とそっくりではないか。  ドアのあいまから女の声が聞こえる。 「もっと崖のふちに立って。危ないから進めやしない……できるだけふちまで行きたいのよ……そこのところに立っていて……」  座席には女の姿はない。ただテープ・レコーダーがまわっているだけだ。  男は崖のふちに立って、底知れない闇《やみ》を見た。  その頃、冬子は華やかなパーティの席で、耳をそばだてていた。 「あーッ」  深い崖底に落ちて行く男の声を聞いたように思ったが……そんなはずはない。伊豆とここでは何百キロも離れている。ただの空耳《そらみみ》だろう。  桜木町駅にほど近い喫茶店の片すみでトンボ・グラスの女がコーヒーを飲んでいた。  ピンクの電話が鳴って、田辺冬子を呼び出した。トンボ・グラスが立って受話器を取った。 「もし、もし、冬子です」 「もし、もし」 「あ、あなたなのね。うまくいった?」 「これから行くよ」 「早く来て」 「うん」  電話が切れた。  冬子は男の来るのを待ちながら、胸いっぱいにタバコを喫《す》って吐いた。心が高ぶるときにはいつもこの癖《くせ》が出る。  ——あの細い道ならば簡単に車で突き落とせるだろう。バンパーに布を巻いておくように言っておいたから、車に傷が残るはずもない——  冬子自身のアリバイは完全だった。なにしろ大勢の友だちとパーティをやっていたのだから。  これから先は夫が釣りに行ってウッカリ崖から落ちて死んだように演技《えんぎ》をすればそれでよかった。  あそこの海で死体があがらないなんて、初めから嘘《うそ》っぱちだった。今に死体があがって大騒ぎになる。  泣き崩《くず》れ、葬式《そうしき》を出し、それから生命保険をタップリといただけばそれでいい。  あの男にかなりの財産があると言ったのも嘘だった。  それどころか冬子たちには、もう日々の生活を支《ささ》える金さえ乏《とぼ》しくなっていた。借金で食っていると言ってもいいほどに。冬子も夫も働くには向いていない。人生は遊びながらおもしろおかしく過ごしていくものと、二人はそう信じ込んでいる。  夫にはほとぼりのさめるまでどこかよその土地に姿をくらましていてもらえばいい。保険金がおりたあとで、今度は夫が山本吾郎となって現われて、新しく結婚すればよろしい。  ——新居《しんきよ》は横浜を離れ、どこか……そう神戸あたりがいいかな——  喫茶店のドアがあいて、サングラスの男が現われた。  冬子が手を振った。男が肩をすぼめて近づく。 「うまくいったのね」 「うん。たいしたもんだよ。あんたの悪知恵《わるぢえ》は。なにもかも計画通りにいった」 「そうよ。私の計画にぬかりはないわ。今度殺し屋でも開業しようかしら」 「これでタップリ保険金が入る」 「そう」  男はポケットからテープ・レコーダーを出した。リールがまわっている。  冬子が手を伸ばしたが、男の手が先に伸びてもう一度テープ・レコーダーをコートのポケットに戻した。 「どうしたの?」 「これであんたと僕とは、同じ穴のムジナだ。殺したのは僕だが、このテープの中に共犯の証拠がある」 「そんな水くさいこと言わないで。初めから仲よく同じ穴のムジナになるつもりだったんでしょ」  男は首を振った。 「それはどうかな。彼との約束がどうなってたか知らんけど、僕は保険金の半分ほしいな。それともいっしょに暮らそうか」  冬子はハッとして男の顔を見直した。 「あなた……だれなの?」  男はゆっくりと言った。 「あの崖っぷちはだれにとっても危険なところだよ。あやうく木に掴《つか》まって、はいあがることもできるけど……」  冬子は首を振った。  ——この人、本当はどっちなのかしら—— [#改ページ]   西瓜《すいか》流し  車輪《しやりん》が大きな石を踏んだらしくガタン、ガタンと車体が弾《はず》むように揺れた。  私はフロント・シートに掛けた腕に力を入れて衝撃《しようげき》をこらえた。 「すみません」  運転席の佐々木君がハンドルをせわしなく動かしながら、ちょっとうしろを見て言った。  車の通ったあとには、赤茶色の土煙が舞いあがり細かい土|粒《つぶ》が草の葉を汚す。 「以前は、もう少しいい道だった」  私がこう言うと、佐々木君は前を向いたまま、 「あっ、ご存知《ぞんじ》ですか」  と、答えた。 「うん。五年ほど前に来たことがあるから」 「そうですか」  車の中はクーラーが利《き》いているが外は真夏の昼|下《さが》りだ。あの時も八月のなかば……そう、ほとんど今日と同じ頃《ころ》だったろう。何年か後にもう一度同じ道を通るなどとは考えてもいなかったが、こうして来てみると思いのほか昔《むかし》の記憶はよく残っているものだ。 「もう二十分も走ると、阿賀野《あがの》川に出るんじゃなかったかな」 「そうです。よくご存知ですね。ご自分で運転していらしたんですか」 「そう」  私はひっきりなしに揺れる車の震動《しんどう》に合わせるように腰を浮かしながら答えた。  人間の記憶というものは、ちょっとしたきっかけがあると奇妙《きみよう》に鮮明《せんめい》に残るものだ。あの時も�もうどのくらい走れば川が見えて来るだろうか�と、そのことばかりを考えながらハンドルを動かしていた。助手席で西瓜《すいか》がゴロゴロと揺れていた。しかし、もしこんなにひどい石コロ道だったら、西瓜は助手席から転げ落ちていただろう。果物《くだもの》が不細工《ぶさいく》に揺れながらもとにかくシートの上に載《の》っていたのは、道がそれほどひどくなかった証拠である。  またガタンと激しく車体が上下した。 「今年の春、山|崩《くず》れがあって……。ほんのここのところだけなんです。すぐにいい道になりますから」  佐々木君はまるで自分の罪のように恐縮《きようしゆく》して言った。  昨夜、会津若松《あいづわかまつ》市で農業団体が主催する講演会の講師を勤《つと》め、山間《やまあい》の道を新潟《にいがた》へ向かう途中である。他の講師たちは東山《ひがしやま》温泉にくつろいでいたが、私は一足早く新潟へ行く必要があってタクシーの手配を頼んだ。すると、世話役の佐々木君が、 「私がお送りしましょう」  と申し出てくれたのである。  この土地の生まれらしいが、東北人にはめずらしく話し好きで、外向的な性格のようだ。話しかけると気さくに話に乗って来る。私はと言えば、旅をする時にはできるだけその土地の人の話をじかに聞いて、風土の違いを知る手掛かりを得たいと思うたちなので、佐々木君の話し好きは私にとって好都合《こうつごう》だった。  道は佐々木君の言葉《ことば》通りすぐに平坦《へいたん》な砂利《じやり》道に変わった。  道幅も少しずつ広くなり、山が遠ざかり、車がゆっくりとカーブを切ると急に目の前が開けて豊満な水の流れが現われた。 「ああ、見えて来たね」 「はい」 「ちょっと、そこで停《と》めてくれないかな」 「はい」  外に出ると夏の温気《うんき》がムッと全身を包む。  私は一度背伸びをしてから、川土手を登り雑草に隠《かく》れた道を下《くだ》って水辺に出た。  今は水の多い季節なのか少ない季節なのか、そこまでは私にわからない。岸から川のまん中に向けてコンクリート・パイルを組んだ足場が突き出ていて、そこを渡って行くと流れのいくらか速いあたりに出る。 「危ないですよ」  土手の上に立った佐々木君が声を掛ける。 「大丈夫だ」  水は足場にぶつかってクルクルと独楽《こま》を廻《まわ》すような渦《うず》を巻いて流れ去って行く。タバコを投げると、シュッと火の消える音を立ててすぐに見えなくなった。 「なにかおもしろいものがありましたか」  自動車に戻ると、佐々木君が頬笑《ほほえ》みながら尋ねた。  土地の人にとっては、ただ川があって水が流れているだけの風景にしか過ぎない。わざわざ車を停めて、水に手を浸《ひた》している私が奇妙に映ったのかもしれない。 「いや。この前もあそこまで降りて行ったことがあるものだから……。のどかな景色だね。トローンとして、東京であくせく暮らしているのが、馬鹿らしくなる」 「そうですか。ここだって東京と同じですよ。結構《けつこう》血なまぐさい事件も起こりますし……」 「ほう……? あなたはこの土地の生まれなんでしょ?」 「そうです。今、通って来た途中の村で生まれました」 「それじゃあ西瓜流しを知っているね」 「西瓜流しですか?」  私はその言葉を言えば、佐々木君がすぐに応じて子どもの頃の思い出話でもしてくれると思ったのだが、案に相違してキョトンとしている。 「このへんじゃお盆《ぼん》のあと川に西瓜を流して供養《くよう》をするって言うじゃないか」 「ああ、そのことですか。やりますよ。仏壇にいろんなものをお供《そな》えするでしょ。それを菰《こも》にくるんで川に捨てるんです。茄子《なす》とか南瓜《かぼちや》とか……」 「供養のために流すんじゃないのか」 「さあ……? 仏さまに供えた物はもうみんな古くなってますからね。川で泳いでいて菰が流れて来ると追っかけるんですよね」 「それで西瓜があると食べたりして……」 「食べませんね。食べるためなら畑へ行って盗《ぬす》んできます。ただ水の中で追っかけて遊ぶだけですよ」 「このへんのお盆は旧暦《きゆうれき》でやるんだろ」 「そうです」 「じゃあ今頃だね」 「終わったばかりです」 「たしか西瓜流しと聞いたけど、西瓜だけじゃないんだね、流すのは」 「ええ……。西瓜はよく穫《と》れますけど。なにかあったんですか」  佐々木君は運転席から首を廻して怪訝《けげん》な顔で私を見た。 「いや、べつにたいしたことじゃないんだ。前にきれいな娘さんに西瓜流しを手伝わされたことがあって……」 「そうですか。知りませんでした」  もちろん佐々木君が知るはずもないことだ。旅をしていると、ときどき不思議なことにめぐりあう。あとで考えてみると、どうしてあんなことになったのか、エッチラオッチラ重い西瓜を持って水辺まで降りて行った自分の姿がひどく滑稽《こつけい》なものとして心に浮かんで来る。  あの娘は——いや、娘と言うにしては少し年を取っていたかもしれないが——目鼻《めはな》立ちのよく整った人だった。  一口に美人と言われる顔の中にも、大別しておかめ顔と般若《はんにや》顔があるものだが、あれは明らかに般若顔の美人だった。驚いたような表情で私を見|据《す》えていたが、輪郭《りんかく》のはっきりした造作《ぞうさく》が一つ一つ今でもはっきりと思い浮かぶほどだ。  もし相手があの女でなかったら、私は同じことをやっただろうか。  そう。やったことはやっただろうが、五年たった今でも鮮明にその記憶を残しているかどうかはあやしい。  たった今、山を越える前にも私はあの女の家の脇《わき》を通った。あれから五年たったのだから、あの女もいくらか年を取ったことだろう。田舎《いなか》の女はふけやすいので、もうあの時ほどきれいかどうかわからない。 「さっき通って来たところに火の見|櫓《やぐら》があったね」 「はい。このへんに火の見櫓があるはずだって言っていらした、あのことでしょ」 「そう。あの近くの農家で水を飲ましてもらったことがあってね」 「はい」  窓の外では川の流れが近づいたり遠ざかったりしながら県道に沿《そ》って蛇行《だこう》している。筏《いかだ》が一つ菅笠《すげがさ》の男を乗せてのんびりと水面を滑《すべ》っていた。  あの時はとにかく喉《のど》が渇《かわ》いてたまらなかった。クーラーのない自動車だったから、ほこりっぽい道を走ると、口も鼻もザラザラと土を含んだような感じになる。喉が渇くと余計に口の中がほこりっぽくなる。  町はずれにコーラの自動販売機があって、そこで一缶飲み干したのだが、甘い飲料はかえって喉の渇きを激しくしたようだった。  ——どこか水を飲ませてくれるところはないだろうか——  ハンドルを握《にぎ》りながら道端に水道の蛇口《じやぐち》のある家を捜《さが》して走った。  古めかしい火の見櫓の下を過ぎると、崩れた植込みの垣《かき》があって、そのあいまからこれも古めかしいつるべ井戸が見えた。  ——このへんは井戸水を使っているのか——  井戸水の冷たさを思うと、もう矢も楯《たて》もたまらずブレーキを引いて私は車を降りた。  植込みのかげに大きなくちなしの木があって、黄色く汚れた花が朽《く》ちかけた匂いを周囲に放っていた。 「すみません」  垣根のあいだから斜《なな》めに体を入れて私は中に声をかけた。  初めから女がそこにいたのか、それとも私の声に応じて顔を出したのか、そのあたりの記憶は曖昧《あいまい》だ。女は井戸端で水をいじっていたような気もするし、濡《ぬ》れた手のまま家の中から現われたような気もする。 「すみません」  人影を見つけて私がもう一度大きな声をあげると、女はバネ仕掛けのようにクルリと向きを変えて、上目《うわめ》遣いに私を見た。  藍色《あいいろ》のワンピースを着ていた。 「水を一ぱいいただきたいんですが……」  こう声を掛けた時も女は黙って私を見据えていた。一瞬《いつしゆん》この人は聾唖《ろうあ》であるまいかと思った。  目の輝きも頬骨《ほおぼね》の張り出しぐあいも、いかにも意志の強そうな顔立ちである。 「はい」  つるべ井戸は今では使っていないらしく、井桁《いげた》の上に荒けずりの板が載っていて錆《さ》びた針金《はりがね》がそれを堅《かた》く固定している。その脇にポンプがあって、水桶《みずおけ》の水が濁《にご》っていた。 「水を一ぱいいただきたいんですが……」  私は同じ言葉を繰《く》り返した。 「はあ……」  女はまだ私の言葉がよく飲み込めないように突っ立っている。 「喉が渇いてしまって」 「この水は駄目なんです。飲み水なら中から持ってきてあげます」  女はほとんど訛《なま》りのない調子で言うと、すぐに向きを変え家の中へ入った。  気がつくと周囲は蝉《せみ》の声ばかりで、淀《よど》んだ色調の絵画のようにドンヨリと動かない。私の通り抜けた垣根は表通りに面しているが、この家にとっては裏手に当たるらしく、そんなところから急に見知らぬ男が顔を出したので、女は驚いたのだろう。 「どうぞ」  女はすぐに戻って来てコップになみなみいっぱいの水を差し出した。 「どうもすみません」 「もういいですか」 「ええ、もう結構です」  女はじっと私の仕ぐさを見つめている。私も女のよく整った顔立ちを見据えた。  その時の私の気持ちをなんと説明したらいいものか。田舎の家で思いがけず美しい面差《おもざ》しの女に会って、なにか話しかけてみたいような、そんな気持ちだった。女もそんなことを待ち受けているような気さえした。  いや、自惚《うぬぼ》れて言うわけではない。ただそんな気がしただけのことだ。私のほうがもう少し話しかけてみたいと思ったから、女もその気配《けはい》を敏感に感じ取って私の顔を見つめていたのだろう。もちろん私とても話しかけて、なにか特別なことが起きるなどとは毛頭《もうとう》考えていなかった。ただ、ほんの少しなにか話してみたかっただけである。 「この道を行くと新潟へ行くんでしょ」 「そうです」 「どのくらいかかりますか」  女は首を伸ばすようにして表の道を見てから、 「車ですか」 「そう」 「なら、二時間くらい」 「道はいいのかな」 「峠《とうげ》を越えるまではちょっと悪いけど、その先はいいです」 「峠を越えるまでどれくらいかかりますか?」 「半分くらい。一時間……」 「そう」  もうそれ以上なにも話すことはない。 「どうもありがとう」  私が背を向けて植込みのほうに向かうと、女がオドオドと遠慮がちに尋ねた。 「あの……新潟に行かれるんですか」 「そう」 「すみませんが……」  女は言いよどんだ。 「なんです?」 「すみませんが……ちょっとお願いがあるんですけど」 「はあ……?」  私は多分|棒《ぼう》でも飲んだような表情で女を見ていたにちがいない。 「あの……西瓜流しを手伝っていただけませんか」 「西瓜流し?」 「そうなんです。このへんじゃ西瓜流しをやるんですけど、手が足りなくて……」 「どういうことですか」 「お盆のあとで仏様にお供えした西瓜を川に流すんです。大きな川に流せば流すほど死んだ人はあの世でしあわせになれるし、旅の人にお願いできればもっといいんです」  女は口寄《くちよ》せの巫女《みこ》のように早口で言った。 「なるほど」 「峠を越すとすぐ広い川に出ます。そこんとこで流してくれませんか。今すぐ持って来ますから」  ゆきずりの旅人を神や仏の使いと考える民間信仰は日本中至るところにある。その旅人に死者への供養を託《たく》せば、きっと天国にまで届くという考えもありそうな話だ。 「いいですよ」  私は気軽く頷《うなず》いた。 「お願いします。ちょっと待ってください」  女はすぐに消えたが、戻って来るまでには少し時間がかかった。  私はポンプの柄《え》を動かし、冷たい水を汲《く》んで顔を洗った。 「すいません」  声といっしょに西瓜をかかえた女が現われた。 「勝手に顔を洗わしてもらいましたよ」 「ええ……」  西瓜は新聞紙にキチンとくるまれ、さらに持ちやすいように編《あ》み籠《かご》で吊《つ》るしてある。 「ただ川に流せばいいんですね」 「はい」  私は女から西瓜を受け取り、助手席にポンと投げ込み、またハンドルを握った。  エンジンをふかしながらもう一度垣根のほうを見たが、女の姿はもうそこになかった。 「ただこれだけの話なんだよ」  私は車のバック・シートに背を預けながら少し照れるように佐々木君に笑いかけた。笑ったのは、われながらわざわざ他人に話して聞かせるほど中身のある話ではないと思ったから。田舎にはめずらしい、目鼻立ちの整った女に会ったことをちょっと言ってみたかっただけ……。しかしそれだって、その女を見たことのない人にとっては、さして興味のある話ではあるまい。 「それで……先生は西瓜を川に流してやったわけですね」 「そう。きれいな女の頼みには弱いからね」 「さっきのところですか、川の……」 「うん。川の真中目がけて籠ごと投げてやったら、こっちが反動で水に落ちそうになってね」 「そうですか」  私は口をつぐみ、水の流れを見ながら、あの西瓜は無事《ぶじ》に海まで届いただろうか、途中でだれかに拾われたら供養にならないのではあるまいか、などとあの時のことをらちもなく思い返していた。  阿賀野《あがの》川の流れは同じ県下を流れる信濃《しなの》川に比べてずっと女性的だ。信濃川はちょっと河口をさかのぼると至るところに中州《なかす》があり、川の流れも峻烈《しゆんれつ》で変化に富んでいる。阿賀野川は母の胸のようにふくよかな流れだ。この水量ならば西瓜もユラユラと水に揺られてどこまでも流れて行ったことだろう。 「それ、いつのことですか」  急に佐々木君が問いかけた。 「ちょうど五年前」 「今ごろですか。お盆のあと……」 「そう。五年前の今日だったと思う。どうして?」  道の向こうから大きなトレーラーがやって来て、それをやりすごすまで佐々木君は黙っていたが、 「火の見|櫓《やぐら》を通り過ぎたところって、言ってましたよね」 「うん」 「つるべ井戸が見えて……」 「知ってるのかね」 「知ってます」 「くちなしの花があって……」 「田兵衛《たへえ》の家ですよ」  佐々木君が峠の向こう側の土地の生まれであることはさっき聞いて知っていた。狭い田舎のことだから、私が偶然立ち寄った家を佐々木君が知っていても不思議はない。むしろそのことに気がつかなかった私のほうが迂闊《うかつ》だった。  この話は、むしろ「火の見櫓を過ぎたところにつるべ井戸の見える家があるけど、知ってるかね」  と、話し始めるほうが適当だったのかもしれない。佐々木君もきっとあの女のことを知っているだろう。 「女の人は二十七、八歳だったでしょう? 目の大きい、きつい顔をした……」 「そうだよ。この土地の人じゃないね」 「東京の人です。田兵衛んちの兄のとこに来た嫁《よめ》さんですから。兄さが生きてたときからお婆ァとは反《そ》りがあわなかったけど、兄さが自動車事故で死んでからは余計に悪くなったんじゃないですか。赤ん坊が一人いたけど、これは結婚する前にできた子だから、お婆ァは�だれの子かわからん�と言ってました。嫁さんは兄さの子だから育てて家督《かとく》にしようと思うし、お婆ァは兄さが死んでしまったあとは、弟のほうに気に入った嫁をもらって家を継《つ》がせたい。そのうちに、その子が溜池《ためいけ》に足滑らして死んでしまうし……嫁さんは�お婆ァが殺したんだ�って、そう思ってたんじゃないですか」  佐々木君の話は断片的ではあったが、田園の一家の悲劇の荒筋《あらすじ》を推測するに充分だった。  田兵衛の家の長男は、東京へ仕事にでも出ているうちに、美人で勝ち気な女と親しくなり、子どもまでできた。田舎へ連れて帰って正式に結婚をしたが、姑《しゆうとめ》と嫁の気性《きしよう》があわない。お婆の夫に当たる田兵衛はきっと何年か前に死んでいて、家の実権は姑と長男が半々くらいずつ握っていたのだろう。長男が生きている限り嫁の立場は安泰《あんたい》だったろうが、あいにく自動車事故にあって急死してしまった。嫁は生まれた男の子を楯《たて》にして家の実権を握ろうとする。姑はもともと仲のわるい嫁に大きな顔をされてはたまらない。嫁を追い出して次男に家を継がせたいと思うのも自然である。�だれの子かわからない�というのは、お祖母《ばあ》さんの邪推のような気もするが、疑われるようなことがあったのかもしれない。その子どもが溜池に落ちて死んだのは、たぶん事故だろうが、それもお祖母さんが本当にやったのかもしれない。少なくとも嫁がそう思ったとしても、不思議はない。五年前に女が熱心な眼差《まなざ》しで私に西瓜流しの供養を頼んだのは、死んだ子どもと夫の安らかな成仏《じようぶつ》を願ってのことだったらしい。 「見たところ、のどかな田舎に見えるけど、人の住むところにはみんな血なまぐさいことがあるんだな」  私は相変らず窓の外を潤《うるお》す豊満な流れを見ながら言った。 「そう思います。私はどっちの味方をするわけでもないけど、嫁のほうも兄さが死んでからは財産を狙《ねら》ってたんじゃないですか。田兵衛の家は金持ちだし、お婆ァも金貸しをやってタップリ持ってるって噂《うわさ》だったからね。兄さが死んだんだから、東京へ帰って新しく出直せばよかったんですよ、あんな家にウロウロしてないで……。お婆ァもちっとは財産でも分けてやればよかったんだけど……」 「くわしいね」 「このへんの土地の者なら、みんな知ってますよ。えらい事件でしたから……。警察の人が大勢出動して」 「お祖母さんがつかまったんだね」 「いえ、嫁さんがつかまって……」 「なんで嫁さんが自分の子を殺すんだ」  佐々木君があわてて首を振った。 「あ、そのことじゃないんです。子どもが溜池に落ちたのはヤッパリ事故ってことになったんです。そのあと……」 「そのあと……?」  また大きなトレーラーが来て佐々木君の話が中断した。 「そのあとお婆ァが殺されたんですよ」 「嫁さんに?」 「それはわかりませんけど……。それがちょうど五年前の今頃のことなんです」 「本当かい?」 「ええ。さっき五年前とおっしゃったから、私、一生|懸命《けんめい》計算してたんです。先生も五年前にここにいらしたのは間違いないことなんでしょう?」  こう言われて私はもう一度考え直してみた。 「たしかだ。間違いない」 「そうですか、ヤッパリね」  バック・シートからは運転席の顔は見えない。しかし人間はうしろ姿にも表情がある。佐々木君がなにかを思案《しあん》し、納得《なつとく》しているらしいことが私にもわかった。 「お婆ァと嫁さんの仲が悪くて、そのお婆ァが殺されたんだから……警察が嫁さんを疑うのは当然ですよね」 「それはまァ、そうだけど……。いつ殺されたんだ?」 「お盆のあとです。日にちはハッキリ覚えていないけど、八月の十六日か、十七日かそのへんでしょう」 「時間は?」 「昼過ぎです。お婆ァは体のぐあいが悪くて、一日裏の二階で休んでいたらしいんですね」 「うん」 「その日は田兵衛の家で小さな寄り合いがあって、嫁さんは台所の仕事をしてました。近所のおかみさんも何人か手伝いに来てたんじゃないですか、あとの話の様子から考えると……」 「お祖母さんは寝ている部屋《へや》で殺されたのか」 「そうなんです。田兵衛の家は広いから嫁さんがちょっと台所を抜け出して殺しに行ったってわかりゃしないですからね。近所の人は嫁さはだいたい台所の付近にいて、長くはどこかへ行ってたことはなかったって、あとでそう言ってましたけど……」 「つまり台所で働いていて、ちょっと隙《すき》を見つけて姑さんの部屋へ行って殺した、警察はそう考えたんだね」 「一応はそう考えたらしいですけど……」 「直接の動機はなんなのかな。つまり……その、憎んでいたのは事実だろうが、人ひとり殺すとなれば、なにかきっかけとなることが必要なんじゃないかな」 「死んだ子が夢枕《ゆめまくら》に立って、お婆ァに突き落とされたって言ったらしいですよ」 「当人がそう言ったのか」 「いえ、そんな噂《うわさ》が立っただけです」 「わからんなあ。死体を発見したのはだれなの?」  私は、どことなくはっきりしない話に首を傾《かし》げながら言った。 「嫁さんです。お婆ァの部屋から叫び声が聞こえるので、みんなが行ってみると、嫁さがお婆ァの死体のそばでペタンと青くなってすわっていました。血だらけで、すぐに巡査《じゆんさ》が来て、捜査が始まって……」 「嫁さんはどんな色の洋服を着てたのかな」  私は五年前の昼下りつるべ井戸の脇で見た藍色《あいいろ》のワンピースを思い浮かべながら尋ねた。 「さあ、そこまでは……。だれが考えたって嫁さがあやしいんですよ。警察もそう思って取り調べを始めたけど、嫁さは自分は死体を見つけただけだって言い張るし、決め手になる証拠がないんです」 「ふーん」 「情況《じようきよう》から判断すると、どうしても嫁さが一番あやしい。しかし共犯《きようはん》者が見つからないものですから……肝腎《かんじん》なことがわからなくて、それで警察は大がかりな家捜《やさが》しをしたんですね。犬を使って家の外まで。それでも駄目でした」 「なにを捜したんだね」 「お婆ァが殺された正確な時間はよくわからないけど、その日一日中嫁さがみんなの前から長い時間姿を消したことはなかったんですよ。これは大勢の人がそう言ってるから間違いないんです」 「よくわからない」  私には佐々木君の言わんとすることがよく飲み込めなかった。  佐々木君はそんな気配を察するようにわざわざ車を停め振り向いて言った。 「先生は西瓜の中身を見たわけじゃないんでしょ? 紙包みを開いて……」 「…………」  私は黙って頷《うなず》いた。  それは本当だ。私はただ西瓜流しの編《あ》み籠《かご》を預かって、それを川に投げ捨てただけだ。  西瓜は宙を小さく飛んで水に落ち、二度三度浮き沈みをしながら流れて行った。その光景はさっきも水辺で思い浮かべたばかりだった。 「お婆ァの死体には首がなかったんですよ。嫁さんが殺したんなら、どっか家の近くに首がなけりゃいけない。それが見つからない。そのうちに峠を越したこの川の下《しも》で首があがったんですね。ゴム袋《ぶくろ》にきれいに包まって……。どう考えても嫁さんがその首をこの川まで持って来る時間はなかったし、共犯者もいなかったし……それで犯行の一番肝腎なところが警察にも説明できなかったらしいです」 「…………」  私はため息をついた。 「結局、事件はどうなった?」 「不起訴《ふきそ》になりました。首の始末《しまつ》がはっきりしなけりゃ、裁判で争ったって警察側は勝てないんじゃないですか」 「そんなものかな」 「ええ。あるのは情況証拠ばかりですから。通りがかりの自動車の荷台《にだい》にでもポンと投げ込んで、それがコロコロ川に落ちたんじゃないかなんて、そんなことを考えた刑事もいたらしいですけど、あいにくよほど下流《かりゆう》に行かなきゃそう都合よく荷物が川に転げ落ちるところなんかありゃしません、西瓜はそれよりずっと上《かみ》のほうで見つかっているんですから」  いったん停車した自動車はまた走り始めてちょうど川にかかる橋を渡っていた。 「嫁さんはどうなった?」 「東京へ帰りました」  水はゆったりと私の眼の下を流れていく。水面になにかが浮いて消えていくのは、今でもお供物を流す人がいるのだろうか。 「警察へ行きますか」  佐々木君がフロント・シートから窺《のぞ》くようにして私に尋ねた。 「いや……。あんたはどうする?」 「私はべつに。もう昔のことですから。ただ……」 「ただ……?」  今度は私が佐々木君の顔を窺き返した。 「ただ……のどかな田舎だって、いろいろすごいことがあるんですよ。こんなきれいな川だって、ついこのあいだまで水銀|汚染《おせん》で騒がれていたんだし……」  佐々木君はこう言って肩をすくめた。窓の外は相変《あいかわ》らず油絵のように静かな昼下りの田園風景である……。 [#改ページ]   鈍色《にびいろ》の眼  吊《つ》り眼の人は、どうしてみんな気が強いのだろう。  遺伝《いでん》のせいだろうか。つまり、昔《むかし》、たまたま吊り眼で勝ち気の人がいて、代々《だいだい》それが伝わって……いや、そうではあるまい。  気性《きしよう》の激しい人は、子どものときからいつも眼を怒《いか》らせているので、それで大人になってからも眼尻《めじり》が吊りあがってしまうのだ。  それとも大脳に勝ち気な性格を内蔵していると、なぜか眼尻の筋肉《きんにく》が上に引きつれるという仕組みが、人間に備《そな》わっているのかもしれない。  貫井和彦《ぬくいかずひこ》は山手線の内まわりの座席に腰をおろして、そんなことを考えていた。  時刻は朝の十時近く。ラッシュも一段落して車内はすいていた。向かい側の席にいかにも勝ち気そうな、吊り眼の女が腰掛けていて、それを見つめているうちに、自分の知っているあの男、あの女。いろいろと吊り眼の人を思い浮かべ、 「みんな気の強いやつばかりだなあ」  と、わけもなく不思議に思っていた。  もっとも、これは吊り眼に限ったことではない。人間の眼は、人間の心……。  垂《た》れ眼の人は、どこか気弱《きよわ》なところがあるものだし、ドングリ眼はいつも間が抜けている。切れ長の眼はどうも淫蕩《いんとう》な性格を覗《のぞ》かせているような気がしてならない。 「例《たと》えば……」  と、向かいのシートをもう一度ゆっくり眺《なが》めたとき、和彦は切れ長の眼が自分のほうを向いて頬笑《ほほえ》んでいるのに気がついた。 「……やあ」  和彦は小さく声を発したかもしれない。女は多恵子《たえこ》だった。  多恵子は胴体《どうたい》だけを軽く倒して会釈《えしやく》をした。カルピスの包み紙のようなワンピースを着ている。和彦は席を離れ、女の前に立った。 「しばらく」 「本当に。ご無沙汰《ぶさた》してます」  多恵子は和彦をにらむようにして含み笑った。  久しぶりに……そう、三年ぶりに会う多恵子は、少し太ったようにも見えた。 「さっきからずっと見ていましたのよ」 「知らなかった」 「これから会社ですの? 遅《おそ》いのね」 「うん。ちょっと遅刻《ちこく》をして……」  多恵子は上から下へ和彦を見つめ、それからもう一度下から上へ視線を戻しながら、 「ちっとも変わってないわ」 「あなたも変わっていない」  和彦も同じ仕ぐさで答えた。�太ったな�と思った印象《いんしよう》も消えていた。  多恵子は梁線《りようせん》のまっすぐな、美しい鼻《はな》を持っている。静脈《じようみやく》の薄く浮いた白い肌《はだ》に、朱《しゆ》を帯《お》びた古風な口紅の色がよく映えていた。  和彦は多恵子についてのさまざまな記憶を心に浮かべ、その中からこんな場合に一番ふさわしい話題をすくいあげた。 「ご主人がなくなられたそうで……」  そのことは二、三の友人から聞いて知っていた。 「そう。もうすぐ三回|忌《き》」 「ご病気は?」 「よくある病気ね」  たぶん癌《がん》のことだろう。 「東京へはなんで? 今でも名古屋なんでしょ」 「あら。連絡しなかったかしら。向こうを引き払って、戻って来たの」 「今はどこに?」 「横浜に。独《ひと》り暮らしよ」  切れ長の眼がなにかを思い出すように笑った。 「それは知らなかった」 「貫井さんのほうは相変らず?」 「ああ。なにもかも相変らずだ」 「ご家族も?」 「うん」  和彦は話しながら奇妙《きみよう》なもどかしさを覚えていた。  和彦は、この女の白い乳房《ちぶさ》も、黒い恥毛《ちもう》も知っている。そして、もっと隠微《いんび》な部分の特徴までも……。一番新しい記憶と言えば、まっすぐにそこにつながっている。なのに、女はそんな関係がごく当たり前の、取るにも足りないことのように頬笑んでいる。  電車が新橋についた。和彦は有楽町《ゆうらくちよう》でおりる予定だ。  窓の外を見ながら和彦が誘った。 「少し……お茶でも飲みますか」  どうせ遅れた出勤なので、そのくらいのゆとりはあった。 「ええ。そうしたいけれど……」  多恵子は手首を�く�の字にそらして時計を見てから、 「今日はまずいの。でも、ゆっくりお話したいわ。土曜の午後なんか……無理かしら」  ゆっくり会えばどうなるか。気配《けはい》が少しあやしい。切れ長の眼はただの眼ではない。違うかな。  和彦はまわりの乗客が聞き耳を立てているのではあるまいかと声をひそめた。 「いいですよ」 「お電話をくださいな。番号を申しあげますから。高台の、わりといいマンションなの。東京より静かで……」  多恵子は自分の家に誘うつもりでいるらしい。  この前のときもそうだった。女は名古屋へ赴《おもむ》いた和彦を自分の家に招き、そして寝室へ招《しよう》じ入れた。人妻だったのに……。  あの時のことを思うと、和彦はどうしても寝室で見た黒い影を脳裏《のうり》に浮かべてしまう。その影はガラスの向こうでサッと動いて消えた。たしかに見たと思うのだが……。二つの眼が燃えるように光っていた。  だが、あの時と今では事情《じじよう》がすっかり変わっている。多恵子の家を訪《たず》ねてももう厄介《やつかい》なことは起こるまい。 「はい。これが電話番号」  多恵子はバッグの中のメモ用紙に数字を書いて突き出した。 「ああ、そう」  電車が有楽町に着いた。多恵子はもっと先まで行くらしい。人波がドアに向かった。 「じゃあ、私はここで。近いうちに連絡《れんらく》をします」 「きっとね。待ってますから」  多恵子は長い視線で和彦を見送るようにして、一語一語ゆっくりと告げた。  多恵子は高等学校の二年|後輩《こうはい》だった。二人とも生物研究部という、名前のわりにはあまりたいした研究もしないクラブに属していて、このグループは植物採集と称してはよく近郊へハイキングに出かけた。  多恵子はマリモを養殖《ようしよく》したり、解剖《かいぼう》の標本を作ったりするのがうまかった。マリモのほうはともかく、動物のアルコール漬《づ》けなどは、どう眺めても相当にグロテスクで、とても少女の趣味にふさわしいものではない。 「気味がわるくないのか」  と、尋ねると、 「ぜんぜん」  と笑う。  どこか普通の女の子と違っていた。  不思議なことに少し見|慣《な》れて来ると、実験室の透明なガラス器具は、美少女に似合わないでもない。  その頃《ころ》から多恵子はすでに�女�を感じさせる美しい顔立ちで、上級生や同級生の間でなかなか人気があった。和彦はずっとあとになって気がついたのだが、多恵子の表情には、 「さぞやあのときにはいい顔をするだろうな」  と、思わせる、淫《みだ》らな美しさがあった。高校生は高校生なりにそれを感じ取っていたのだろう。  本人はそのことをどれだけ意識していたのか、少なくとも表面は無邪気《むじやき》に、奔放《ほんぽう》に振る舞っていた。和彦と特別に親しい間がらであったわけではない。  たまたま和彦と同じ大学の、同じ学部に進み、この時期にはキャンパスで顔を合わせ、まれには一緒《いつしよ》にコーヒーを飲んだりしたこともあった。  和彦が就職をすると、多恵子が会社に尋ねて来て、 「ここでは女子を採用しないかしら?」 「君が勤めたいのか」 「ええ。迷惑《めいわく》?」 「そんなこともないけど、採用しないんじゃないかな」  人事課に問い合わせてみたが、案の定《じよう》、女子の大卒を採用する予定はなかった。  多恵子もそれほど熱心に就職先を捜《さが》していたわけではなく、帰りぎわに、 「ときどきおごらせに来ていい?」 「ああ、いいよ」  となって、それから年に一、二度、思い出した頃にオフィスに顔を出した。  和彦がどうしても忘れることのできないのは、ある夏の暑い日、多恵子に昼めしをご馳走《ちそう》することになって、会社のエレベーターで降りたとき……。エレベーター・ボックスの中には、ほかにだれもいなかった。 「ビルの中は冷房がきいているけど、外はホントに暑いのよ、死にそう……」 「そうかい」 「だから……ほら」  多恵子はこう言いながらサッとスカートをたくしあげた。奇妙にすがすがしい仕ぐさだった。  和彦は茫然《ぼうぜん》とした。  スリムな脚《あし》の上に黒い草むらがあって、多恵子はなにもはいていなかった。  スカートはフワリと落ちて、エレベーターは一階についた。  和彦は食事の最中も、そのあと仕事についてからも、しばらくはその残像が頭にこびりついて仕方がなかった。訳《わけ》のわからない気持ちだった。多恵子はどういうつもりであんなことをしたのだろうか。  だが、相手はさほどまでそのことを重く考えている様子はなかった。暑いから、ほら、ご覧《らん》の通りよ、と見せただけ……それだけのことのように振る舞っていた。  その光景はたしかにエロチックではあったけれど、一方ひどく清潔でもあって、それゆえに和彦にはかえって一層エロチックに思えた。  ゆっくり考えてみれば、こんな淫《みだ》らな悪戯《いたずら》を無邪気に、こともなげにやって見せるのは多恵子の性格にふさわしいのかもしれない。  多恵子はその後も何度か和彦の会社に顔を見せたが、和彦の思いとはべつに彼女のほうは、エレベーターの中のことなどケロリと忘れたような顔をしていた。  そのうちに結婚をして名古屋に新居《しんきよ》を持ったという通知が届いた。結婚のくわしいいきさつについて和彦は知るはずもなかったが、二、三の友人から流れてきた噂《うわさ》によれば、 「二十歳も年上の人よ」 「一流の建築家で、名古屋じゃ名士《めいし》らしいぜ」 「どうして、そんなおじいちゃんと結婚したのかしら」 「彼女、昔から突拍子《とつぴようし》もないことやる癖《くせ》があったからなあ」  であった。  和彦の会社は小牧《こまき》に工場があるので名古屋へ出張する機会も多かった。多恵子はそれをどうして知ったのか、また思い出したようなときに電話を掛けて寄こして、 「こっちへはよくいらっしゃるんでしょ。ぜひ声を掛けてくださいな。もう結婚二年目でしょ。あきちゃった」 「もうあきたのか。俺《おれ》ももうすぐ二年になる」 「あきない?」 「うん。まあ、あきたな」 「そうよねえ。毎日同じ顔ばかり見ているんですもの。なにか変わったことしてみたい」 「あなたらしいよ」 「本当に遊びに来て。主人はかまわないの」 「うん。そのうちに行こう」 「そのうちなんか駄目《だめ》。すぐによ」  和彦はエレベーターの中のことを思い出し、この誘いの底にあるものを漠然《ばくぜん》と感じ取っていた。  それから一か月ばかりして二度目の誘いがあり、結局和彦は名古屋で多恵子と会うことになった。  城の見えるホテルで夕食を取り、それから同じホテルのバーに席を移して酒を飲んだ。  多恵子は相変わらずあちこちと飛び石のように話題を変えながら闊達《かつたつ》に話した。  スーツと同じオレンジ色のカクテルを注文して、ちょっと口をつけてから、 「これ、あたしよ。飲み込んでちょうだい」  と、グラスを突き出す。  和彦が飲み干《ほ》すと、 「ほら。あたしがあなたの中に入っちゃった」  こう言って、細い指で和彦の胸を撫《な》でた。  切れ長の眼が、酒の酔いでなまめかしくふくらみ、それがめくるめく閨房《けいぼう》のさまを連想させた。 「おうちに来てほしいの」  グラスを宙にあげ、それを凝視《ぎようし》したまま言った。 「いいのかい?」 「平気よ。主人は帰らないわ」  どの道そうなるだろうと初めから感じていたことだ。ただ、知らない土地で場所をどこに選ぶか、それだけが和彦の気掛かりだった。  東京に比べれば名古屋はずっと狭い町だ。知った人の眼がないわけでもあるまい。多恵子の家が一番安全な場所と言えないこともなかった。  多恵子の家は、建築家の住まいだけあって瀟洒《しようしや》な作りだった。コンクリートの中に木組みを入れ、中は和風の部屋になっていた。  車の中ではシャンとしていた多恵子も玄関を入るとすぐに和彦にもたれかかり、首を振り振り、もがくようにして唇《くちびる》を求めた。階段の手すりが女体《によたい》に似て滑《なめ》らかな曲線を描いている。和彦は女体を支えるようにして登った。  暗い部屋に一つ、一つ、明かりがともり、たどりついたところは、大きなベッドを置いた寝室だった。  ベッドルームはたいていどこか乱れた様子のあるものだが、この部屋はきれいに片づいていた。今夜こうなることをはっきりと予測していたように……。  女が倒れ込むと、ベッドがゆるく弾《はず》んだ。 「酔ったのかい?」 「うん。酔っぱらっちゃった」  手を�ハ�の字に置き、じっと目をつぶって待っている。  和彦はベッドに寄り添《そ》い、スーツを脱がせにかかった。気がつくと多恵子にはかすかな体臭があって、体の興奮《こうふん》につれ匂《にお》いを増すように思えた。  やがて光の中に白い乳房がこぼれた。掌《てのひら》を載せて少し余るほどの大きさである。乳暈《にゆううん》が薄い紅の円を描き、そのまん中に乳首がふくらんでいる。おぼろな色調は暈《かさ》をかぶった春の月のようだ。  和彦は手を伸ばしてパンティの上から凹《くぼ》みに指を寄せた。その下はすでに甘く潤《うる》んで口を開いているのだろう。  和彦はしばらくの間、そのまま指と掌で布地《ぬのじ》の上から愛した。  女はいきなりパンティを取ってしまうよりこうして布地の上から触《ふ》れるほうがいい。和彦はそう思っている。初めのうちは差恥心《しゆうちしん》が働いて激しい愛撫《あいぶ》になじめない。薄衣《うすぎぬ》一つあれば、どんな淫《みだ》らな角度に脚を開いても、女はなすがままにまかせているものだ。  開いてみると、多恵子のそのあたりは思いのほか幅広く、なにほどかの面積を持っていた。ちょうどパンティの細い部分が隠すにふさわしいほどの……。 「たくさん愛してほしいの」 「ああ、いいよ」  パンティを取ろうとして和彦は少しためらった。頭上《ずじよう》に四角くせり出した明るいライト・ボックスがあって、その輝きが煌々《こうこう》と隈《くま》もなくベッドを照らしている。  多恵子の裸形を見たくないわけではない。ただ、初めからこのまばゆい光彩の中で愛しあうのは、男として思いやりに欠けるのではないかと案じた。  それに……薄暗がりのほうが多恵子を大胆にするだろうし、光の下にさらすのはそのあとからでも遅くはあるまい。 「明かりを消そうか」 「…………」 「このままでいい?」 「…………」  多恵子は答えなかった。和彦は女の沈黙にかすかなぎごちなさを感じた。  と言っても、それほど明確に意識したわけではない。ただ、相手は身振りで示すほどには酔っていないと思った。彼女は明るい光の中で愛されるのに慣れていて、それをあからさまに言うのが恥《は》ずかしくて黙っているのだと解釈した。  あますところなく全裸になった多恵子は腰が細くしまっていて、下腹に盲腸《もうちよう》の小さな傷跡があった。静脈《じようみやく》の青さが肌の白さを一層|際立《きわだ》たせている。  すっきりと伸びた脚は長さに不足はなかったが、ほんの少しO字脚を描いていて、それがかえってなじみやすい、ちかしいものの印象を与えた。 「あ」  声をあげて肩をすくめた。  恥毛は、猫毛というのだろうか、しなしなと流れるようにやわらかい手触《てざわ》り。そのやわらかさがまばらに途絶《とだ》えるあたりから肉が体液に浸《ひた》って形を失うほどに溶《と》けていた。  多恵子が掌を求めるように脚を開いた。ホッと体臭が匂った。 「たくさん愛してほしいの」  同じ言葉を繰り返した。 「ああ、いいよ」  和彦も同じ言葉で答えた。ちょっと間が抜けているな、と思いながら……。  女体は充分に熟《じゆく》していたし、しなやかな曲線は和彦の眼を十二分に魅了してくれる。  だが……それが愛撫のどの段階からかわからない。ベッドの上で和彦はかすかな違和感を覚えていた。ゆるやかな曲線を描いて溶けていく多恵子の動作の中に、時おり不連続な、ギクシャクした部分があるような、そんな気配であった。もう一つ、没しきれないような……。なにかを意識して演技《えんぎ》をしているような……。  やがて愛撫の時が進み、和彦が身を起こした。そして溢《あふ》れる蜜《みつ》の中をさまよいはじめた。  多恵子は脚をからめ脚を伸ばし、内奥の喜びを少しものがすまいと、身を硬《かた》くして棒《ぼう》になり、そして弓になった。 「たくさん……たくさん、愛して」  声を聞きながら和彦は頂点に達した。  女の波はなおも余燼《よじん》を求めて寄せ返した。  和彦はそのままの姿勢で待った。そして消えてゆく恍惚《こうこつ》の中で、奇妙なことに太古《たいこ》からこの営《いとな》みを続けて来た男たちの不安を考えていた。  この無防備な姿勢……。  女に手足を奪われ、周囲に背を見せている。この姿はさぞや外敵の多い大自然の中で頼りないものであったろう、と。そして、今の自分だって例外ではないことを。  そう思ったとき、和彦はベッドの背後の壁面《へきめん》に、楕円形《だえんけい》の姿見が張ってあることを、あらためて思い出した。  鏡、鏡、鏡……。  急にその存在だけが、この寝室の中で浮き出して見えた。  ライトのスウィッチはベッドから手を伸ばせば届くところにあった。  パチッ。  明かりが消えた。 「どうしたの?」  多恵子が驚いて言った。 「眼がまぶしいんだ」  マンションからそう遠くないところに広告|塔《とう》の回転式のライトがあって、グルグルまわりめぐって四方を照らしていた。その光が偶然《ぐうぜん》この一瞬にめぐってきたのは、和彦にとってやはり好運と言うべきなのだろう。  鏡の奥にサッとかすかな人影が浮かび、二つの眼が鋭く光った。ほんの一瞬のことで、すぐに消えてしまったが、和彦はたしかにそれを見たように思った。  多恵子が言った。 「明るいほうが好きなの。へん?」 「いや」  和彦は多恵子の体を離れ毛布を引きながら明かりをつけた。部屋の中がふたたび輝きを取り戻した。  もしこの鏡がマジック・ミラーであって、だれかがのぞいていたとすれば……こちらの部屋が明るくて、向こうが暗くなければいけない。この関係が反対になると、マジック・ミラーは素通《すどお》しのガラスに変わってしまう。  和彦が部屋の明かりを消し、その時広告塔の回転スポットが隣りの部屋を照らした。かすかなシルエットが浮かんだのは、そのせいではあるまいか。  和彦はなにも尋ねなかった。情事は問わず語らずのままなにごともなく終わって、和彦は多恵子の家を辞去《じきよ》した。なにかよくないことが起こるのではあるまいか……。  東京に帰ると、多恵子は二度ほど電話を掛けて寄こした。 「またおいでくださいな」  と、電話の声は屈託《くつたく》がない。 「ああ、どうも。また、そのうちにお邪魔《じやま》します」  和彦もなにげない調子で答えたが、釈然《しやくぜん》としなかった。  多恵子の体は露もいっぱいに熟《う》れていて充分に未練があったけれど、だれかにこっそり見られていたというのは、やはり不愉快であった。不安でもあった。  多恵子の夫は建築家なのだから、寝室にマジック・ミラーを取りつけることくらい、やさしいだろう。  そして、あの夜鏡の向こうにだれかがいたとすれば、それは多分その夫にちがいあるまい。多恵子も承知のうえで、夫婦はそんな淫靡《いんび》な楽しみを賞味《しようみ》していた……そう考えるのが一番ありそうなことだ。和彦が帰ったあとで、二人は今夜の獲物《えもの》の噂《うわさ》を楽しみながら熱く抱きあったにちがいあるまい。  あまり後味のいい情事ではなかった。それを思うと和彦としては望んで多恵子との関係に深入りする気にはなれなかった。加えて会社の配属も変わり名古屋へ行く機会も少なくなった。  むこうもそんな和彦の事情に感づいたのか、それからはもう誘っては来なかった。  そのうちに何年かたって多恵子の夫が死んだという噂を聞いた。  そして、また何年かたって電車の中で多恵子にめぐりあったというわけだ。  いったん体を交《まじ》えて別れた男女は、何年かたってめぐりあっても簡単にもとの位置に戻れるものだ。もう一度抱きあう下心がなければ、わざわざ日時を約束してまで再会するはずがない。  和彦は多恵子を思い出すときには、いつも鏡の裏の影のことを考えたが、それも奔放《ほんぽう》な女と二十歳も年上の夫との結婚生活を考えれば、なんとなく納得《なつとく》のいくことだった。そして時の経過とともに多恵子のやったことを許せるような気分になっていた。  しかも事情はすっかり変わっている。  その夫が死んで、多恵子がたった一人でマンション暮らしをしているとなれば、また会ってみるのもわるくない。  一週間待って和彦は電話を取った。多恵子は早速にでも訪ねて来てほしい、と言う。 「じゃあ今度の土曜日」 「ええ、いいわ」 「四時半ごろ」 「うん」 「桜木町《さくらぎちよう》の駅がいいのかな」 「迎えに行ってあげる」 「頼む」  未亡人《みぼうじん》はベージュ色のマーク㈼を運転して駅までやって来た。  葉脈《ようみやく》のように透《す》けたネッカチーフで長い髪を軽くたばね、とび色のファッション・グラスを掛けている。 「先日はどうも」 「やっぱり来てくれたわね」  少女のように肩をすくめて笑った。名古屋で会ったときよりも、また、つい先日電車の中で会ったときよりもずっと美しい。  女が美しく見えるのは、二人の関係がよい方向に向かっているときの証拠である。  そんな時には、男が女を美しく見ようと思っているせいもあるのだが、女自体も男に気に入られようと思い、そう思うと女は真実きれいになってしまう。不思議な生き物だ。  この習性は、逆の関係のとき——つまり今まで親しかった二人がだんだんどうでもいいような間がらに変わっていくとき、まったく正反対の形でより一層|顕著《けんちよ》に現われてくる。 「この女、なんだか昔ほどきれいじゃなくなったな」  と、男が感じるときは、たしかに女はみにくくなっているのであり、みにくくなったのは女のほうがその分だけ男に関心が薄くなったということなのだ。 「少し横浜を案内しましょうか」 「うん」  港町はすでに鈍色《にびいろ》の夕暮れに包まれていて遠く立ち並ぶクレーンの向こうでキューポラかなにかの火が赤く雲に映《は》えていた。 「とても未亡人には見えない」 「そう? このあいだクラス会やったの。まだ結婚してない人もいたわよ」 「そうだろうな」  女は夫を失ったことをそう深刻《しんこく》に考えている様子はなかった。なんによらず�深刻�というのは、この女にふさわしいことではない。どんなことでも、すぐにおもしろがってしまう。 「どうして二十歳も年上の人と一緒になったんだ?」 「どうしてかしら。成りゆきね。望まれて結婚するほうがいいと思ったし……。手鍋《てなべ》さげてもってタイプじゃないもン。結婚には、お金もわりと大切な条件でしょ?」 「そうだな」 「でも、わるい人じゃなかったわ」 「愛してたってわけか」 「さあ……。人並み程度にはね。ここ、お化《ば》けが出るんですって」  話題がすぐ変わるのも、この女の癖《くせ》である。二人は外人|墓地《ぼち》を歩いていた。和彦もつい話につられて、 「へえー。どんなお化けが……」 「白い背広に白い帽子をかぶって……」 「ずいぶん礼儀正しい幽霊《ゆうれい》だな」 「そうなの。アベックが二人で抱きあっていると、どこかからじーっと見ているんだって……」  和彦ははっとして多恵子の顔を見た。  ラブ・シーンを凝視する幽霊……なにか深い意味があって言ったことだろうか? いや、そうではなさそうだ。たまたまそんな話になってしまったのだろう。  多恵子も気がついたらしく、 「さ、行きましょうか」  と足を急がせた。 「そうしよう」  二人はレストランで軽い食事をすませ、多恵子のマンションへ赴いた。  エレベーターの中で、和彦が苦笑《にがわら》いを見せて言った。 「いつかすてきなものを見せてもらったね」 「なに……?」 「会社のエレベーターで」 「ああ、あれ」  多恵子はいたずらっぽく片頬《かたほお》をゆがめてから、 「あたしって、少しへんでしょ」 「あの時は驚いたよ」 「そうよねえ」  と、他人事《ひとごと》のように言っている。  和彦が肩を抱き寄せると、多恵子は首を斜《なな》めにあげながら顔をすり寄せた。頬が上気して夏の日だまりのように熱かった。  多恵子は明るい光の下にふたたび白い裸形をさらした。  いくばくかの年月が記憶の詳細《しようさい》をほとんどかき消していたが、こうして眺めてみると、和彦はその体の部分一つ、一つに覚えがあった。  乳房は昔通りに掌に少し余った。  乳首は乳暈《にゆううん》の輪をかぶって、相変らず春のおぼろ月であった。  青い網目《あみめ》を浮かした太腿《ふともも》を押し開くと、肉のさざ波が濡《ぬ》れた色を見せて崩《くず》れた。 「たくさん愛してほしいの」  なつかしい声も聞こえた。  和彦はもう一度寝室の中を見渡した。ベッドのすその棚《たな》にはシクラメンの鉢植《はちう》えと熱帯魚を飼《か》う水槽《すいそう》があって、鏡のようなものはなかった。ベッドの震動《しんどう》につれ水槽の水が光と影の縞《しま》模様を天井《てんじよう》に映す。  昔、高校生の頃に多恵子はマリモを養殖したり、山椒《さんしよう》魚を育てたりしていたが、今でもそんな趣味があるらしい。  和彦が舌先をまるめて軽く触れると、多恵子はそれを求めるように、またそれをのがれるように激しく腰を上下する。  そして眼をなかば閉じたまま、体をあられもなく開いて、 「もっと見てほしいの。もっと見て……」  と、潤《うる》んだ声をあげた。  もう見るも見ないもなかった。はっきりと明かりの下に浮かびあがっていた。 「見てるよ」 「もっと……もっと見て」  女はそれでも執拗《しつよう》にせがんで、脚を宙に踊《おど》らせ虚空《こくう》を蹴《け》った。  和彦は多恵子の高まりを計りながら、その上に体を重ねた。  抽送のたびに多恵子は、 「もっと、もっと見て」  まるで意味のないうわ言のように言い続けて、さらに一層深い歓喜を追い求めていた。  ………… 「君は見られるのが好きなんだね」  ベッドの上で和彦が言った。多恵子は手の甲《こう》で襟首《えりくび》の汗《あせ》をぬぐいながら、 「いやあね。どうして?」  と、言う。 「自分でそう言ってるじゃないか」 「そう?」 「そうだろ?」 「うん」  恥ずかしそうに、ほつれ毛をかきあげた。 「それに……名古屋のときはだれかが見ていたね」  多恵子は思いのほか驚かなかった。上目遣《うわめづか》いでにらんで、 「知っていたの?」 「ああ」 「やっぱりね。なんとなくそんな気がしたわ」 「だれなんだい?」 「だれって……主人よ。ほかに見る人なんかいないわ」 「どうしてそんなことになったんだ」 「言わなきゃ駄目《だめ》?」 「うん。聞きたい。見られたんだから聞く権利くらいあるだろう」 「そうね」  多恵子は和彦に体を寄せながら、 「主人は結婚したときから、セックスがあんまりできなかったわ。年のせいもあるでしょうけど体に故障《こしよう》があったのね。すまながっていたわ、あたしに……」 「なるほど」 「なんて言うのかしら、彼って意志の強い人なの。ものすごい努力家で……。だからいろいろやったわ。でも駄目だったわね」 「うん」 「最後にあたしがだれかほかの人と浮気《うわき》をするのを見たら、なんとかなるだろうって……」  事態《じたい》は和彦が漠然《ばくぜん》と想像していた通りだ。世間にけっしてない話ではない。 「それでやったわけか」 「そう」 「平気だった?」 「平気じゃないけど……少し興味はあったわね」  切れ長の眼は、この時もちょっと淫《みだ》らに光った。 「初めは嫌《いや》だったけど……。でも主人があんまり熱心に言うもんだから……」 「うん、うん」 「そのうちに……驚いちゃった。あたしのほうが見られてることにものすごく刺激を感じちゃって……。主人はすごい眼つきで見ているの。カッと見開いて、全身が眼になったみたいにして……。それがあたしにわかるの。ベッドの上で燃えながら、もう一人の男を征服《せいふく》している感じ。残酷《ざんこく》かしら?」 「うーん。まあな」 「おかげであたしもヘンテコになってしまって。主人の眼を意識しなきゃ、燃えなくなってしまったの」 「俺のときもそうだったわけか」 「そうよ」 「何人目だった?」 「そんなに多くじゃないわ。気に入った人じゃなきゃいやだもン。あなたのときは、まだ初めのうちよ。下手《へた》っピイだったから、あなたに感づかれたのね」  多分そうだろう。  男の視線を感じたというより、多恵子の仕ぐさからなんとなく他人の気配を感じ取ったと考えるのが本当だ。  だが……和彦は思った。嫉妬《しつと》と激昂《げつこう》に燃え狂った眼が、激しい意志の閃光《せんこう》を和彦の背に焼きつけたとしても不思議はない、と。鏡の奥に見た二つの眼は、ゾッとするほど無気味《ぶきみ》に燃えていた。背筋はその熱さを感じたのではあるまいか。 「気をわるくした?」 「いや……」  和彦はほとんど無意識《むいしき》に多恵子の恥毛を撫《な》で続けていた。 「よかった。でも、あたし……本当に見られてないと駄目なのよ」 「今夜はすっかり感じたじゃないか」 「そうよ。すてきだったわ」 「だれも見てないのに……」 「主人が見ているわ」  和彦は真実ギクリとした。さりげない言いかたが、かえって言葉の確かさを伝えていた。部屋の隅《すみ》に黒いものがうずくまって、じっとこっちを見ているような……。ちょうど外人墓地の幽霊のように……。  だれもいなかった。  多恵子は羽根《はね》のようにネグリジェを巻いてスックと立った。 「ほら」  水槽《すいそう》の中になにかが浮いていた。 「生きているのよ、これ」 「……まさか」  白と黒の入り混《まじ》った、奇妙なものが水面に浮かんでいる。 「本当よ。不思議ね。とても意志の強い人だったわ」  多恵子がガラス・ケースの前で脚を開いて長い眼で和彦をうながした。 「たくさん愛してほしいの」  指が、女のひそかな部分をこそぐると、ドンヨリとさまよっていた、鈍色《にびいろ》の二つの眼球が猟犬《りようけん》のようにピクリと震《ふる》え、それから必死《ひつし》に黒眼を集めたかと思うと、水槽のガラスにひしとねばりつき、食い入るように、燃え立つように、じっとバラ色の肉の蠢動《しゆんどう》を見つめた。 [#改ページ]   鳥  麻布《あざぶ》の裏通り。煉瓦《れんが》色のコーヒー店。名前は�オワゾー�。落ち着いた雰囲気《ふんいき》の店なので圭子《けいこ》は買い物の帰り道などに時折《ときおり》立ち寄ってカフェ・オ・レを飲む。  パステル・カラーの絵が一枚。ガラス細工《ざいく》の白鳥が一羽。それからなんのおまじないか銀色の天秤《てんびん》が一つ飾《かざ》ってある。古風なデザインだから、錬金術《れんきんじゆつ》が華《はな》やかだった頃《ころ》の遺物《いぶつ》かもしれない。今でも実用に耐えるものらしく、表通りをダンプ・カーなどが通ると受け皿が微妙に揺れ動き、やがて静かに水平の位置に収まる。コーヒーの香りを楽しみながら、そんな微細な変化を眺《なが》めるのも圭子のくつろぎの一瞬だった。  いつもはただぼんやりと見ているだけだったが、ある日のこと、ふと空想が飛躍《ひやく》して左の受け皿に山岸一郎《やまぎしいちろう》を載《の》せてみた。右の受け皿に斎田和雄《さいたかずお》を載せてみた。  二人の目方を想像してみたわけではない。  和雄はまだ少年のように無駄《むだ》のない筋肉質《きんにくしつ》の体だし、山岸はもう中年|肥《ぶと》りが始まっている。身長は似たようなものだし、わざわざ計ってみるまでもなく山岸のほうが重いにきまっている。  ——いやだわ——  淫《みだ》らな光景を掻《か》き消すように圭子はタバコの煙を吐《は》く。ベッドの上でも山岸のほうがずっと重い。和雄は羽根《はね》のように重圧感がない。  自分にとってどちらが大切な存在か、それを秤《はかり》にかけてみたわけでもない。  その答えもきまっている。  圭子は赤坂《あかさか》に小さなアクセサリー店を持っているが、その資金を出してくれたのは山岸である。半分は自分の楽しみでやっている商売だから、さほどの利益はあがらない。マンションの家賃も山岸の費《つい》えだし、お小遣《こづか》いがほしければ山岸に頼めばいい。今、山岸を失うわけにはいかない。生活そのものといってもいいほど大切な男だ。  和雄のほうは、なんとかいう劇団《げきだん》の俳優《はいゆう》らしいが、圭子は彼の舞台《ぶたい》を一度も見たことがない。  ——あんなことで食べていけるのかしら——  若いうちはともかく、将来のことを考えると他人事《ひとごと》ながら少し心配になる。生活の匂《にお》いが少しも感じられないところが和雄の取りえなんだけれども……。  天秤にかけるべきものは、圭子自身の心なのかもしれない。  山岸との関係は、けっして金銭だけの理由で結ばれたものではなかった。  圭子はそれなりに山岸を愛している。  妻子のある男だから、山岸のほうから見れば一種の浮気《うわき》なのだろうが、もう五年あまりも続いた関係だ。気心もおたがいによく知っている。お金のことを抜きにしても山岸が目の前から消えてしまったら圭子はずいぶんとさみしい思いをするだろう。  ただ……山岸は週に二日ほど顔を見せるだけ。山岸ひとりを思っていたのでは、心のバランスが狂ってしまう。今さら山岸の家族に強い嫉妬《しつと》を感じたりすることはないけれど、ときには多少のわだかまりを覚えることがある。心を百パーセント彼に委《ゆだ》ねるわけにはいかない。ほかにも山岸は浮気くらいしているだろう。  あまり深刻《しんこく》にならずに適度に睦《むつ》まじくしているのが一番いい状態なのだから、そのぶんだけ圭子のほうもどこかに魂《たましい》の発散を求めなければいけない。  左側の受け皿に山岸を載せ、秤《はかり》がそちらにだけ歪《いびつ》になるほど傾いては危険である。右側にちょっと和雄を載せ、ほどよいバランスをとっている。古風な天秤が水平を保つのを眺《なが》めながら、それが自分の心の状態なのだ、と圭子は思った。 「いらっしゃいませ」  ウェイトレスの声が響いて、カフェ・オ・レの白い湯気が揺れた。  背後から気配《けはい》が近づいて来る。和雄が来たのだろう。振り向いてみなくたって見当がつく。どことなく存在感の薄い男……。いつも風のように歩いて来る。そして必要な相手に必要な音量で届くだけの声で呟《つぶや》く。「やっぱりここでしたか」と。  和雄にはくわしく話したことはないけれど、圭子にパトロンを兼《か》ねた恋人がいることくらいは充分に気づいているだろう。その男のほうが和雄よりはるかに大切な人であることも知っているだろう。  けっして和雄は出過ぎたことはしない。場違いなことはしない。便利と言えば、このうえなく便利な男だ。和雄もまた、もう一つの受け皿にだれかを載せているのだろうか。  それならそれでいっこうにかまわない。  ソファの背に女のような白い指がかかり、細い声で囁《ささや》く。 「やっぱりここでしたか」  圭子はその響きを聞いてわけもなく鳥の鳴き声を思った。どれかの音階がむかし飼《か》っていた九官鳥《きゆうかんちよう》に似ているのかもしれない。  犬や猫を飼うようにせっせと寵愛《ちようあい》して心を傾けなければいけない相手ではない。さりとて金魚や熱帯魚のようになんの反応もない男でもない。そうね、ちょうど小鳥を飼うようなもの。さほど世話もやけないし、心の通じ合う部分も多少はある。和雄の声の中に鳥の響きを感じたのは、圭子の側のこうしたメンタルな作用のせいかもしれない。 「そう、今日はお店がお休みなの」  圭子は初めて振り返って顔をあげた。  和雄を知ったのは三か月ほど前。  リビングルームに緑の植木《うえき》を置きたいと思って六本木の花屋を訪《たず》ねたら、 「マンションですか」  と、主人が言う。 「そう。十一階」 「日当たりはどうです?」 「木を置こうと思っているところは、あんまりよくないわねえ」 「じゃあ、ガジマルがよろしいでしょう。強いから」  と薦《すす》められた。  なんの愛想《あいそう》もない、ただの葉っぱばかりの植木だが、手数のかからないほうがいい。単純なもののほうがかえって飽《あ》きにくいだろう。  それをマンションまで届けてくれたのが和雄だった。  色白で、無造作《むぞうさ》に分けた髪がとても清潔そう。切れ長の大きな眼。高い鷲鼻《わしばな》。どこか猛禽《もうきん》類のような鋭い面差《おもざ》しだが、笑うととたんに幼い印象《いんしよう》に変わる。Gパンをはいた腰が竹のように細い。これは近頃の若者たちの特徴だ。  ガジマルの鉢《はち》は結構《けつこう》重い。  無器用《ぶきよう》な腰つきで大きな植木をリビングルームに運び入れてくれた。 「どうもありがとう」 「はあ」  手の甲《こう》で額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》う。  ピアニストにでもなったら恰好《かつこう》のつきそうな細く、長い指だった。毎日土をいじっている手ではない。 「アルバイトなの?」 「はい」 「学生さん?」 「いえ。劇団にいるんですけど、食えないものですから」 「ああ、そうなの。コーヒーでも飲んでいらっしゃいな。インスタントだけど。ちょうど飲もうと思ってたとこなの」  そう誘ったのは、なにほどかの好感を若者に対して抱《いだ》いたからだったろう。 「はい」  青年は悪びれることもなくテーブルにすわった。  代金《だいきん》を手渡したが、あとで気づいてみるとお釣《つ》りが多過ぎる。どうやらむこうが五千円札を一万円札と勘違《かんちが》いしたらしい。アルバイトの身分としてはさぞかし困《こま》っているだろう。  圭子は領収書に記された電話番号を廻《まわ》した。  主人が電話口に出て、 「申し訳《わけ》ありません、わざわざご連絡《れんらく》していただいて……。代金はちゃんと入っておりますから、本人が立て替《か》えたんでしょうね。今日は休んでおりますが、明日来ましたらお電話を入れさせます」  とのこと。  ——悪いことをしたな——  と思った。  三日後に電話が入って、仕事の帰りにお金を取りに来た。このときも圭子は見知らぬ男を招《まね》き入れてコーヒーをご馳走《ちそう》した。ケーキまでそえて。 「毎日出ているわけじゃないのね」 「はい」 「お芝居《しばい》をやっているって言ってたけど……」 「ええ」 「どんなお芝居?」 「新劇です」 「いいわね」 「まだタマゴですから」 「ああ」  六本木界隈《ろつぽんぎかいわい》ではこの手の人種はけっしてめずらしくない。率直《そつちよく》のところ圭子はこうした男たちを少し軽蔑《けいべつ》して眺めていた。軽蔑というよりほとんど関心を持って眺めたことがなかった。  若いうちの理想は理想として、それはまあ、悪くはないけれど、たいていは一人よがりの夢を抱いて、わけのわからない生活を続けているばかり。ただの怠《なま》け者にしかすぎないような気がする。男はもっとバリバリと仕事をすべきものだ。  だが、目の前の青年を見ているうちに宗旨《しゆうし》が少しかわった。  ——多分、この人も仕事をバリバリするタイプじゃないわ。今までわんさと見た通りの演劇青年ね——  だが、どことなく好ましい。悪い人ではなさそうだし……。  ——こんなボーイ・フレンドが一人くらいいてもいいのじゃないかしら——  心を激しく揺すぶられるような感情ではなかったけれど、一種の軽い一目惚《ひとめぼ》れ——だれしもが胸の内奥に持っている浮気心のようなものだったろう。山岸が外国へ出張中で、さびしさが募《つの》っていたことも理由の一つだったのかもしれない。 「ひまなときないかしら」 「はあ?」 「部屋《へや》の模様《もよう》替えをしたいの」  突然思いついたことではなかった。前から考えていたのだが、女手だけではむつかしそうなので、あきらめていた。 「はい」 「手伝ってくれると助かるわ、アルバイトで」 「いいですけど」 「じゃあいつがいいかしら」 「来週の火曜か木曜……」 「いいわ、火曜日の午後くらい」 「はい」  男と女が親しくなるのはやさしい。  模様替えのすんだ部屋で、どちらが誘うともなく唇《くちびる》が重なり、男が時折《ときおり》女の家を訪ねるようになった。それでも体を重ねるようになるまでには一か月ほどの時間が必要だったろうか。  邪魔《じやま》にならないタイプの男だろうとは当初から感づいていたが、抱きあったあとでもこの予想は少しも狂わなかった。  体の関係ができたからといって和雄には押しつけがましいところがない。必要なときにだけ現われる。のぼせあがって圭子の心に負担《ふたん》をかけることもない。男というより、便利な女友だちみたいなところさえある。 「今はどんな劇をやってるの?」 「やってません」 「一度も舞台に立ったことがないわけじゃないんでしょ」 「最近はありません。ちょっと怖《こわ》くて……」 「あら、どうして」  和雄はタバコを喫《す》わない。  圭子のほうだけが、話のあいまに紫煙《しえん》をくゆらす。 「失敗しちゃったから……。前の劇団にいたときですけど」 「へーえ?」 「�夕鶴《ゆうづる》�をやったんです」 「どんなお芝居?」 「木下順二先生の作品で……。夫婦に助けられた鶴が、自分の羽根で反物《たんもの》を織《お》って……」 「あら、それ、鶴の恩返しじゃないの?」 「そうです。民話《みんわ》を劇にしたんです。娘は�けっして織り物を織っているところを見ないでください�って願うんですけど、ある日、男がそっと覗《のぞ》くと、鶴が自分の羽根を抜いて織っていて……」 「見られたと知った鶴は逃げちゃうのよね」 「そうです」 「で、あなた、亭主《ていしゆ》の役?」 「いいえ、おつうです。鶴の役です」 「だって……女じゃないの?」 「男だけでやってみようということになって……」 「まるで歌舞伎《かぶき》ね」 「そうなんです。ちょっと歌舞伎風な演出で……」 「へーえ」  この人ならできるかもしれない。どこか女性的なところがある。いや、女性的というのとも違う。男でもないけれど、女でもない。セックスを感じさせないところが少しある。奇妙《きみよう》な言いかたかもしれないが、人間じゃないような……。鶴の役ならあってるかもしれないわ。顔立ちも少し鳥みたいだし……。 「どうして失敗したの?」  声でも出なくなったのかしら。少し茶化《ちやか》すように尋ねた。 「それが変なんです。稽古《けいこ》をしているうちにだんだん自分が本当に鳥になってしまうみたいな感じがして……」  青年は曖昧《あいまい》な笑顔で笑った。圭子も笑った。自分の心の中を見抜かれたような気がして……。青年のほうも、ここは一丁《いつちよう》、相手をからかってやろうとでも思ったのか……でも、それとも少し違うようだ。 「まさか」 「ええ」  和雄の表情から笑いが消えて、どこか戸惑《とまど》うような様子だった。あとで考えてみれば、和雄は思いのほか本気だったのかもしれない。  和雄は自分自身のことについてはおしなべて寡黙《かもく》だった。ほかの話題についてもけっして饒舌《じようぜつ》ではなかったけれども……。  結婚はしていない。これはわかる。わざわざ尋ねてもみなかったが、九十九パーセントの確信を持って見当がつく。  だが、同棲《どうせい》に近い状態くらいの女がいないとは断言できない。多分それもいないとは思うけれど、「います」と言われれば「ああ、そう」と納得《なつとく》がいく。まして、ただの恋人くらいなら……これは�いる�ほうに賭《か》けたほうが無難《ぶなん》だろう。  両親はどうしているのか。兄弟はいるのだろうか。どこの生まれで、どこの学校を出ているのか、なにもわからない。 「あなたって、わかんないとこのある人よね」 「そうですか」 「だれに対してもそうなの?」 「はあ」  目の前にすわっているときはともかく、帰ってしまったあとは実在感さえ乏しくなってしまうのだから。  奇妙に勘のよく働くところがあって、圭子が、  ——今日あたり来ないかな——  と思っていると、まことに都合《つごう》よく風のように現われる。来るときも帰るときもとても物静かだ。  圭子は、とりとめもなく、  ——本当に実在している人なのかしら——  と思うことさえある。実は自分の想像の中にだけいる人だったりして……。まさか。馬鹿らしい。  時折、真顔《まがお》でお伽話《とぎばなし》のようなことを言う。  人をからかっているのだと思うけれど、当人は至極真面目《しごくまじめ》な顔で話す。  ——子どもの頃の話を聞いたことがあったわ。火事のときの話だったけど——  でも、あれは何歳くらいのときの話だったのかしら。どこに住んでいるときのことだったのかしら。相変らず肝腎《かんじん》なところはボヤけている。 「自分でも信じられない不思議なことってあるものですね」 「…………」  ベッドの中だった。  情事《じようじ》のあとのけだるさが体のあちこちに残っていた。部屋は暗く、おぼろな意識の中に声だけが忍《しの》び込んで来る。  あれもまた本当に聞いた話だったのかどうか。夢の中だったのではあるまいか。 「旅館に泊《と》まってて火事にあったんです」 「ええ……」 「火事って怖《こわ》いですね」 「そりゃ怖いわよ」  圭子の脳裏《のうり》に朱《しゆ》の色が映った。 「僕はよっぽど深く眠ってたんですね、きっと。目を醒《さ》ましたときには、まわりにもうだれもいませんでした。部屋の隅《すみ》のほうがもうチロチロ燃え始めてました。けむいし、熱いし、無我夢中で廊下《ろうか》に出たんですけど、廊下にも火が廻っていました。下に降りる階段は、もうまっ赤な筒《つつ》になって大きな炎《ほのお》を吹きあげていて、とても通れない。仕方なしに階段を上に昇りました。建物は三階で、窓は崖《がけ》に面してました。崖の下は川になっていて……。�助けて�って叫《さけ》んだけど、下には道がないから、だれもいません。いくら叫んだって無駄なんです。階段のほうに戻ってみたけど、火と煙がどんどん登って来るし……。三階の部屋もみるみる燃え始めました。もう窓から飛び降りるよりほか仕方がない。でも下まで七、八メートルくらいはありそうだし、下には岩がゴロゴロしているはずだし、とても助からない。�助けて、助けて�何度も叫びました。だれも来てくれません。背中に火が近づいて来るし、いつ家が崩《くず》れ落ちるかわからない。もう駄目だと思って、死ぬ気で飛び降りたんです」 「…………」 「とても不思議だったんですよね。一瞬、体がスーッと下に落ちたんですけど、一生|懸命《けんめい》手を動かしたら体がフワッて浮いたんです。腕《うで》が急に羽根になったみたいなんです。でも夢中だったから、くわしく見るゆとりなんかありません。�ああ、鳥って、こんなふうに飛ぶのか�って思いました。それから手をかきながら、ゆっくりと降りました。川を越えてスーッと土の上に降りたとき、うしろのほうでバリバリって音がして家が崩れました。火の粉《こ》が大きな花火みたいに立って、屋根やら柱やらがザザッと崖の下に落ちて来ました。でも、僕の降りたところは窓の真下から三十メートルくらい離れていたから、なんの心配もなかった。驚いて自分の手を見たけど、べつにどこといって変わったところもありません。でも、たしかに自分が鳥になって飛んだような気がするんです。そんなことって、あると思いますか」 「おもしろいお話ね」 「でも、本当なんですよ。自分で自分の姿《すがた》を見ることはできないはずだけど、なんだか鳥になって飛んでいる自分を見たような気もするんです。痩《や》せっぽちの鳥で、細い羽根をバタバタさせて……」 「あなたならあんまり太っちょの鳥にはなれないわね」 「そうです。でもとても怖かった」 「すてきじゃない。鳥になって飛べるなんて。私もなってみたいわ」 「他人事《ひとごと》だから、そんな暢気《のんき》なことが言えるんだなあ。自分が突然鳥になってしまうなんて……怖いですよ」  和雄の声は、まるでそれが本当のことだったみたいに真剣味《しんけんみ》を帯びている。 「話がうまいわね」  ——やっぱり役者《やくしや》だけのことはあるわ——  と思わないでもなかった。 「嘘《うそ》だと思ってんでしょう。だれにも話したことないけど……自分でも信じられないけど、あのときフワッと体が浮いたのは嘘じゃないんだな。第一、まっすぐ落ちたんだったら、窓の真下にいるわけでしょ。川を越してずーっと離れたところに降りたんだから……」 「火事のせいで竜巻《たつまき》でも起きたんじゃないの」 「そうですね。でも、少し違うんだなあ」  もしかしたら本人も半分くらいは信じていたのかもしれない。そうだとすると、  ——この男、少し頭がおかしいのかもしれないわ——  とも思う。  狂気と正気《しようき》とは、ひとめ見てわかるものではないらしい。もちろんひとめ見てすぐにわかる精神異常者もいるけれど、一見正常風に見えながら、少し狂っている人というのも、世間にいくらでもいるにちがいない。  和雄と知り合ってから、まだ日が浅い。とても人柄のすべてを知り尽くしているとは言いがたい。ある日突然奇妙な発作《ほつさ》を起こす癖《くせ》を持っているのかもしれない。  ——これ以上深入りをしないほうがいいのかもしれないわ——  ほかの男と少し調子が違うのは、もしかしたら魂が蝕《むしば》まれているせいではないのかしら……。  和雄は頭を振り振り、あのときはいつもとは違って雄弁《ゆうべん》だった。 「海の動物なんかで、ほかの動物に襲《おそ》われると岩そっくりになっちゃうのがいるでしょ」 「ああ、そうなの」 「ええ。テレビで見たけど、僕もあれかもしれないな」 「便利でいいじゃない」 「そんなことがあったものだから�夕鶴�をやっているうちに、だんだん心配になっちゃって……。緊張《きんちよう》が高まって来ると、体が変なんです。本番のときはどうなるかと思うと、怖くて……」 「舞台の上で本当に鶴になっちゃったら、すごいじゃない。いっぺんで名優になれるわよ」 「ええ……」  和雄は釈然《しやくぜん》としない声で呟《つぶや》く。  情事のあとのたわいない無駄話——圭子はただそう思っただけだった。  和雄と圭子の関係で言えば、お金を持っているのは明らかに圭子のほうだ。和雄は駅のキオスクで売っている就職《しゆうしよく》情報誌を頼りに生活費を得ているらしい。どんな仕事をして、どれほどの収入があるのかわからないが、なんとか食べるのが精いっぱいだろう。  だが、圭子は和雄にお金を貢《みつ》ぐようなまねはけっしてしなかった。相手も子どもじゃあるまいし……女が男にすることじゃない。  和雄もほしがらない。  どんなに頼りない男でも、そのくらいの誇りは持っていてほしい。金銭が介入《かいにゆう》すると�軽い�関係でいられなくなるおそれもある。  それでも一着《いつちやく》だけスーツを作ってあげたことがあった。  青味を帯びたグレイのスーツ……。  ——不思議だわ——  圭子はなにげなくその色を選んだつもりだったが、心の奥に自分でもわからない潜在《せんざい》意識のようなものがあったのかしら。  マンションの裏手は駐車《ちゆうしや》場を置いて公園に続いている。部屋の窓が高いので公園の樹木はずっと下のほうに見えて、朝な夕なにその梢《こずえ》に何羽かの鳥が宿《やど》っているのが見える。鳩《はと》くらいの大きさだが、鳩とは少し違うようだ。  その鳥の色が青味を帯びたグレイ……。  圭子がベランダで洗濯《せんたく》物などを干《ほ》していると、一きわ大きいのが興味深そうに小首をかしげて見ている。まるで圭子の生活をのぞき見でもしているみたいに。  でも、それと背広の色が同じなのはただの偶然《ぐうぜん》。なんの関係もあろうはずがない。  スーツをもらってからというもの和雄はいつもそれを着て遊びに来た。 「このごろはそればっかりじゃない」 「うん」 「ほかにも持っているんでしょ」 「そりゃ持ってるけど、これが一番着やすいし、前のだって似たような色だったし」  事件があったのは三月の末の土曜日……。  あの日は朝から熱っぽかった。体温計で計ったら、三十八度もあった。  だが、圭子はさして気にも留《と》めなかった。特異《とくい》体質らしく、今までにもそんなことがチョイチョイあった。ただ熱っぽいだけで、頭が痛いわけでもないし、気分が悪くなるわけでもない。  むしろかすかにけだるく、ベッドに入っていると、うつらうつらと意識がぼやけて心地よい。体が芯《しん》から熱く昂《たかぶ》って、  ——ああ、抱かれたいな——  と思ったりする。淫《みだ》らな夢を見たりする。小説みたいな楽しい夢を見ることもあった。  昼過ぎにトーストを食べてベッドに潜《もぐ》り込んだ。電話を押入れの布団《ふとん》の中に押し込んで、ベルが鳴っても聞こえないようにして……。そこまでははっきりと記憶している。  だれかに抱かれている夢を見て目を醒《さ》ましたら和雄が来ていた。  ——鍵《かぎ》はあいていたのかしら——  男をあまり感じさせない男だが、ベッドの中ではまちがいなく確かな男に変貌《へんぼう》する。  和雄の華奢《きやしや》な指先が一つ一つ圭子の着衣を奪《うば》う。熱っぽい体がさらに熱くたぎって溶《と》け始める。軟《やわ》らかい感触が、胸に、腿《もも》に、お尻《しり》のあいまに伸びる。歓《よろこ》びの渦《うず》があちこちで蠢《うごめ》き、やがて大きな輪《わ》となって廻り始める。  思わず声をあげたような気がする。  その声も遠い響きだった。  ——すてき——  体が不確かなクッションの上で揺れている……。  突然玄関のブザーが鳴った。  押し方から察して山岸だとわかった。  圭子より先に和雄が身を起こした。ノブを廻す音が聞こえる。  和雄は自分が入ったあとで錠《じよう》をかけておいたのだろう。ドアはガタッと硬《かた》い音をあげただけで開かない。  ——どうしよう——  山岸は鍵を持っている。  ドアの外でそれを探しているらしい。 「隠《かく》れて」 「どこへ」  隠れる場所は見当たらない。  カチン、  錠のあく音が響いた。足を踏み込む、荷物《にもつ》を置く……。  和雄が窓をあけた。  すでにスーツをまとっていた。青味を帯びたグレイのスーツ……。  リビングルームを歩く音と、和雄の姿が窓の外に舞《ま》うのとが同時だった。 「危ないわ、やめて」  声にならない声をあげた。  だが、次の瞬間……どうしたのかしら? 落ちて行く和雄がたちまち大きな鳥になった。たしかにそう見えた。グレイの羽を広げて滑《すべ》るように遠ざかった……。  凝視《ぎようし》するゆとりはなかった。  寝室のドアがあき、 「なんだ、いたのか」 「ええ。眠ってたの」  圭子はうしろ手に窓を閉じた。  眼の片隅で、遠くの人気《ひとけ》ない空地に鳥が舞い降りるのを見た……。見たような気がした。 「風が冷たいじゃないか」 「熱っぽいんで、いい気持ち……」 「よくないぞ」 「待って。ガウンを着るから」  自分のしどけない姿に気づいたが、山岸は無言で圭子をベッドに押し倒す。 「駄目《だめ》よ。ちょっと待って。お手洗いに行かせて……」  手洗いの窓から外を窺《うかが》ったが、もう大きな鳥はいない。無事《ぶじ》に逃げのびたのだろうか。 「どうした」 「べつに……」  山岸の愛撫《あいぶ》を受けても燃えることができない。  ——なんだったのかしら——  どう考えてみてもわからない。 「元気がないな」 「ちょっと体がだるいの」  垣間見《かいまみ》た風景を何度も心に呼び戻してみた。  ——たしかに見た、と思うけど——  山岸が話しかけても、上《うわ》の空で答えていただろう。  その夜はほとんど眠ることもできなかった。それでも明けがたに少しまどろんだ。夢の中で大きな鳥が飛んでいた。  ——あれも夢だったのかしら——  信じがたいことだが、そうとでも信じるよりほかにない。  ——人はあれほど現実そっくりの夢を見るものだろうか——  圭子は自分の中に狂気を感じないわけにいかなかった。  一か月が過ぎた。  和雄はあれっきり姿を現わさない。住所も連絡《れんらく》先も知らなかった。ただ梢《こずえ》の鳥がこちらを見ているだけ……。  ——本当にあの男、いたのかしら——  それさえ訝《いぶか》しくなる。  いや、けっして訝しくはないのだが、そうとでも思わなければ気持ちが収まりにくい。  二か月たって圭子は体に異調を覚えた。  山岸にはもう子どもを生ませる力がない。となると……和雄の実在を疑うのはむつかしい。  ——もしかしたら鳥の化身《けしん》だったりして——  彼はしきりに�夕鶴�の話をしていたけれど……。自分が鳥になってしまう不安を真顔《まがお》で訴えていたけれど……。  懐妊《かいにん》は本当だった。早くもお腹の中に異物《いぶつ》があるそうだ。  ——明日は、手術《しゆじゆつ》をしてもらわなくちゃあ——  明けがた、まどろみの中で激しい腹痛を覚えたが、目醒《めざ》めたときにはすっかり収まっていた。  圭子はなにげなく毛布《もうふ》をはいだ。 「…………」  声も出ない。  ベッドの中に大きな卵が落ちている。  圭子はそれからの自分の行動を思い出すことができない。夢中で走ったのではなかったか。生温《なまあたた》かい卵を持って……。  カチャン。  トイレットの白い陶器《とうき》の中で卵が割れた。 「いやっ」  激しい嘔吐《おうと》が胸をふさぎ、白い眩暈《めまい》の中で圭子は必死《ひつし》に水を流した。  ドロドロと溶けた黄身《きみ》の色、血の色、その中央に白く崩れた鳥の眼、人間の顔……。 [#改ページ]   藁《わら》の人形  奇跡《きせき》というものは、今でも時折《ときおり》起きているらしい。ヴァチカンの法王庁《ほうおうちよう》では六人の職員を専門に配して世界の奇跡をあまねく記録させているそうだ。その記録は一九八〇年代だけでも数冊のノートになっている。私たちが気づかないのは、昔《むかし》と比べて奇跡の規模《きぼ》がずっと小さくなったから。ただそれだけのことらしい。  さもあろう。  科学だけが真実だと考えられている現代では、紅海《こうかい》をまっ二つに割ったり、ガリラヤ湖を裸足《はだし》で渡ったり、そんなスペクタクル風の奇跡はかえって大衆に信じられにくい。奇術の天才フーディニも言っている。「小賢《ござか》しい観客を相手に手品を演ずるのは、はなはだ不愉快な仕事だ」と。  私の見たところ、神は二十世紀に入ってこのかたひどく内気になり賜《たま》い、人気《ひとけ》の少ない露地《ろじ》裏や溜《たま》り場でほんのささやかな奇跡を実現し、あとは、ひそかに知る人にだけ目配《めくば》せを送って満足するようになられた。それともわが主はよほど怠《なま》け者になり賜《たま》われたのだろうか。  ともあれ、このような事情を考え合わせてみれば、眼の錯覚《さつかく》のような出来事《できごと》も、その実、神の啓示《けいじ》であったという、そんな奇跡も巷間《こうかん》に数多《あまた》散在しているのかもしれない。  つい先日、私はこんな話を聞いた。  物語の主人公は一組の新婚夫婦である。  新婚も新婚、前日、東京・四谷《よつや》の聖アントニオ教会で華燭《かしよく》の典《てん》を挙《あ》げたばかり。式典は司祭《しさい》の遅刻《ちこく》で少し混乱したが、始まってしまえば荘厳《そうごん》そのもの。簡素な中にも華《はな》やかさの匂《にお》うものであったという。  夫、保之《やすゆき》、三十一歳。妻、聡子《さとこ》、二十七歳。  いくらか遅目《おそめ》の結婚であろうか。  二人は都下のミッション系大学の先輩後輩の間柄《あいだがら》であった。キャンパスのテニス・クラブで知り合ったのが、そもそもの馴《な》れ染《そ》めであったらしい。  二人の年齢から考えて、学生時代に温めた慕情《ぼじよう》をそのまままっすぐに育てあげ、待ちに待った結実《けつじつ》の日を迎えた、という事情ではあるまい。あいまみえてからの年月がちょいと長過ぎる。紆余曲折《うよきよくせつ》のすえ、双六《すごろく》が振り出しに戻るように最初へ返って�今日のよき日�を迎えたのではなかったか。男は男のように、女は女のように、それぞれ充分に青春を謳歌《おうか》したあとの結婚であった。  披露宴《ひろうえん》のあと、二人は都心のホテルで一泊《いつぱく》し、翌朝新幹線で京都・奈良へ向かった。花嫁が古都の社寺をゆっくりと散策したいと望んだからである。当節流行の海外旅行はすでに婚約のときにすませてあった。  東京駅。午前十時。  結婚式の翌日ということで、二人には見送り人はいなかった。  ——みっともないわ。ホームで万歳《ばんざい》をするなんて——  それを嫌って、だれにも出発時間を知らせなかった。 「この席かしら」 「そうらしい」  花嫁は帽子《ぼうし》を脱いで髪を撫《な》で、新郎は紫煙《しえん》をくゆらす。水入らずの旅が始まるはずであった。  ななめ前の席で、上下ちぐはぐの背広を着た老爺《ろうや》が座席番号を間違えたらしく、小さなトラブルが起きている。  ——ここはグリーン車よ——  ——しっかり切符《きつぷ》を見れば、間違うはずないんだよなあ——  異変《いへん》が起きたのは、その直後……つまり発車の直前だった。  二人は車両の中の風景に気を取られて、ホームのほうには眼が向かない。発車のベルが止《や》み、列車がゆっくりと動き始めた。  灰色の人影がホームを小走りに駈《か》けて来て列車に近づき、二人のすわった脇《わき》の窓に手を伸ばした。  ペタン。  ガラス戸を叩《たた》くようにして、なにかを貼《は》りつけた。  だれかが見送りに来たのかと思ったが、そうではないらしい。  視線を転じたときには、もう人影は窓枠《まどわく》の外へ消えていた。ホームは混《こ》んでいる。首を伸ばしても見えない。  ——なんだろう——  ガラス窓の中央にキャビネ判のモノクロ写真が貼ってある……。  男の記憶では——あとで思い出したことなのだが、その写真は初めまっ白で、ちょうどポラロイド写真のように一秒、二秒と経過するうちに画像が現われた、と思うのだが、女はそれを見ていない。彼女は初めから一枚の写真だったと主張する。  なにもかもほんの一瞬の出来事だった。列車は次第《しだい》に速度をあげ、ただ二人の横の窓に一枚の写真が残った。 「なにかしら?」 「なんだ、これ?」  まっ黒い背景の中から、明るく浮き出ているのは……�大�の字に束《たば》ねられた稚拙《ちせつ》な藁《わら》人形……。足のあたりは黒くぼやけているが、胴体《どうたい》は藁の筋目《すじめ》をはっきりと映し出し胸のあたりを釘《くぎ》で貫《つらぬ》かれて立っている。 「今の男、だれだった?」 「嘘《うそ》。女の人じゃなかった?」  二人とも眼の端で見た人影だったから、わからない。記憶を手繰《たぐ》ってもとりとめがない。背丈《せたけ》は高くも低くもなかった。ベージュ色の帽子を被《かぶ》っていた……。  ——サングラスを掛けてたんじゃないかなあ——  ——マスクをしてたと思うわ——  新郎はなんとなく男だったような気がするし、新婦のほうは女だったと言う。 「なんのつもりかしら」 「うん?」  二人は戸惑《とまど》うように顔を見合わせ、それから申し合わせたように首を傾《かし》げて、ガラス越しに映る写真を凝視《ぎようし》した。  写真は少し曲がってはいた。強力なガム・テープで貼ってあるらしく、列車がスピードをあげても揺らめく気配もない。べったりと貼りついて、小さいながらも黒々と存在を主張している。  理解のむつかしい映像ではない。  一目でわかる�呪《のろ》いの藁人形�……。  だれか呪い殺したいほど憎い人がいるときには、その人に見立てて藁人形を作り、胸を五寸|釘《くぎ》で貫けば願いが成就《じようじゆ》するという。わざわざ説明する必要もないか……。日本人ならだれでもが知っている民間信仰。効果のほどはともかく、それほどの憎しみを胸に隠している人がいるという、その事実はだれにとっても気持ちのいいものではない。 「厭《いや》あね」 「だれなんだ」  新婚の門出《かどで》に藁人形だなんて……いや、門出であればこそ、呪いの人形が、その写真が、届けられたと考えるほうが常識に適《かな》っている。  だれかが二人の結婚を恨《うら》んでいる。呪っている……。  ——だれかしら——  ——だれだろう——  写真を見た瞬間から、奇妙な気まずさが二人のあいだに漂《ただよ》い始めた。 「身に覚えがあるんじゃない?」  聡子が薄く笑いながら上目遣《うわめづか》いに保之を睨《にら》む。表情は�馬鹿らしい�と笑っているが、語気にはチリッと刺《とげ》がある。 「君のほうだろう」 「冗談《じようだん》じゃないわよ」 「知らんなあ」  保之は細くタバコの煙を吐《は》いたところで、 「男だったんじゃないか、さっきの奴」  と呟《つぶや》く。  東京駅で走り寄って来た人影が男だったならば、この結婚を呪っているのも、その男だ。となれば、原因は新婦のほうにあるのではなかろうか。  聡子はいち早く新郎の意図《いと》を覚《さと》って、 「違うわ。女だったわ」  と、いっさいの疑いを寄せつけないほどに確信の籠《こも》った声で撥《は》ね返す。しかし、彼女とてもはっきりと正体《しようたい》を見たわけではなかった。  通路のドアが開き、 「早速《さつそく》でございますが、乗車券、特急券を拝見《はいけん》いたします」  車掌《しやしよう》が一礼をして検札《けんさつ》が始まった。 「取ってもらえないかしら?」  聡子が顎《あご》で気がかりな写真を指して言う。 「無理《むり》だろう」  名古屋までの二時間、この列車は止まらない。窓に貼りついたものを剥《は》ぎ取るすべはない。  犯人は充分にそのことを予測していたらしい。  ——だれだろう——  ——だれかしら——  車内は混んでいる。二人並んだ席をほかに見つけるのはむつかしそうだ。  それに……この写真を残したまま席を替《か》わるのは気恥《きは》ずかしい。腹立たしい。  少なくとも車掌は想像するのではあるまいか。  ——この二人、新婚らしいが、人の恨みをかうようなこと、やっているんだな——  聡子がハンドバッグを窓枠に置いたが、バッグの背が低過ぎて写真を隠すことができない。写真は宙に懸《か》かって、奇妙な姿態《したい》をさらしている。  外は快晴。  さぞかし小田原《おだわら》を過ぎる頃には富士山が美しい姿を映すだろう。だが、それを賞味《しようみ》するのにも眼の端に黒ずんだ写真を留《とど》めねばなるまい。 「ご面倒《めんどう》様です」 「はい……」  保之は黙って車掌に切符を差し出す。  聡子は眼の片隅《かたすみ》でチラリと窓の中の像を見たが、なにも言わない。  車掌に告げてみたところでどうかなるものではない。むしろ自分たちの恥部《ちぶ》を人に覗《のぞ》かれるような、そんな理不尽《りふじん》な嫌悪《けんお》が残りそうだ。 「フラッシュをたいて写したのかな」  車掌が立ち去るのを待って保之が言う。背景がまっ黒のところを見ると、むしろ人形にだけスポットを当てて写したのかもしれない。 「わかりません」  女がすねるように言ってレースのカーテンを引いた。  人目には目立たなくなったが、なにかの折にヒョイと首を捻《ひね》ると、薄い布目《ぬのめ》のあいだから呪いの人形がぼんやりと浮かぶ。 「人違いじゃないのかな」  出発の時刻はだれにも知らせなかった。  だが、犯人《はんにん》がわざわざそのつもりで計画したことなら二人の出発時間を知るなどわけがない。朝、ホテルのロビイで待っていれば、それでいい。 「胸に手を当てて考えたら」  聡子が皮肉な調子で言う。 「覚えがないよなあ。君のほうこそなんかあるんじゃないか」 「ありっこないわよ。あなたと違って」  女はバッグの中からハンケチを取り、シートを倒して顔にかけた。左手の窓に海が映り、小田原が近づいたらしい。  ——綾子《あやこ》だろうか——  脳裏《のうり》に眼鼻立ちのはっきりした女のイメージが浮かんだ。保之は隣りの席を盗み見ながら思案を広げる。  節煙《せつえん》をしようとしても、ついタバコに手が伸《の》びてしまう。タバコは思案をまとめるためにも役立つが、思案を隠すためにもよい小道具だ。  綾子とは友人の家のクリスマス・パーティで知り合い、その年のうちに二度もディスコへ行って遊んだ。 「ラブ・ホテルなんか厭《いや》よ。一流ホテルを予約して。気が変わるかもしれないけど」  遊び慣《な》れているから話が早い。抱き合ったのは、まだ正月気分も脱けない頃だったろう。  器量《きりよう》も悪くない。着る物の趣味もいい。だけど、金持ちの娘で高慢《こうまん》ちき。サラリーマンの女房にはどうかいな。それでもつい三か月前まで、月に一度は抱き合っていた。彼女、セックスがきらいじゃないね。  言っちゃあ悪いがただのセックス・フレンド。愛していたとは思えない。いつかは別れるつもりでいたが、勝ち気な娘は都合がいいね。まかり間違っても「結婚してほしい」なんて泣きついたりはしない。 「俺《おれ》、結婚するんだ」 「ああ、そう。月並《つきな》みなことやるのねえ」  憎まれ口をきいていたけれど、少しはプロポーズを当てにしていたんじゃあるまいか。いや、おおいに当てにしていたのかもしれないぞ。それをうすうす感づきながら最後の最後まで遊んじゃって……悪《わる》だなあ俺も。あれからは誘いの電話を掛けても綾子は邪慳《じやけん》にプツンと切ってしまう。  まあ、当然のことだが……。  ——しかし、綾子じゃないな——  綾子が藁人形を作って五寸釘で刺《さ》すなんて……彼女のプライドが許すはずがない。  となると……連想がポンと移る。  ——もしかしたら、英恵《はなえ》——  白いポッカリとした表情が浮かんだ。  ——いつ会ったのが最後だったか——  去年の秋。伯父《おじ》の法事《ほうじ》のときのお寺の廊下《ろうか》でパッタリ顔を合わせた。白い表情がハッと赤味を帯びた。  英恵は父方の従妹《いとこ》。家は鎌倉《かまくら》にある。今でもあそこの古い家に住んでいるのだろう。二つ歳下《としした》のはずだから二十九になるのか。  大学生の夏、彼女の家へ遊びに行った。夏|木立《こだ》ち。うるさいほどの蝉《せみ》の声。裏庭には彼女の水着が干《ほ》してあった。  あのときは家にはほかにだれもいなかった。 「英恵ちゃん」  廊下の手すりに立って外を見ているのを背後から呼びかけて肩を抱いた。  そのまま彼女がじっとしていたからいけないんだ。  抱き寄せると、軟《やわ》らかい乳房《ちぶさ》が掌《て》に触《ふ》れた。もう我慢ができない。それまでの毎日、海へ行っては水着の中のものを想像していたんだ。ワンピースの下には高価なハンケチのようなパンティをつけているだけだった……。  一夏《ひとなつ》のうちに貪《むさぼ》るように何度か抱いた。  だが、三年もたつと、やることはみんなやり尽《つ》くしてしまったみたい……。次第《しだい》に会うのが間遠《まどお》くなり、一年に一度顔を合わせるか、二度合わせるか……。  そのくせ会った時にホテルに誘えば、黙ってついてくる。  便利な女。おとなしいだけの女。  ——二十九まで嫁《とつ》がずにいたのは俺のせいかな——  まさか……。  とりわけ冷たい仕打ちをした覚えはないけれど、恨《うら》まれても仕方がないところはある。  ——違うな。英恵じゃない——  恨んでいても藁人形を刺すようなタイプじゃない。�これ見よがし�に列車の窓に貼《は》る勇気は英恵のものじゃない。 「ああ、きれい」  車両の中に感嘆の息が漏《も》れる。  案の定《じよう》、窓の外には富士山が見え隠れしている。月並みながら姿の美しい山。新幹線にはよく乗るけれど、今日ほど白く明瞭《めいりよう》な姿を見るのはめずらしい。  それを眺めようとしてカーテンをあけると……なんだい、この写真は。藁人形というのは、単純な細工《さいく》のくせにどこか不気味《ぶきみ》な様子を宿している。  ——まさか、あの人が——  替《かわ》って藤川《ふじかわ》めぐみの事務服姿が浮かんだ。  藤川は保之が会社に入ったばかりの頃、仕事の手ほどきをしてくれた人。職場の人間関係についても丁寧《ていねい》に教えられたが、彼女の情報のなんと正確だったことか。 「課長の緑川《みどりかわ》さんは、とっつきは悪いけど、むつかしい人じゃないわ。困ったことがあったら直接|跳《と》び込めばいいの。どんなに強く怒られてもクヨクヨしないことね。二度同じ間違いさえしなければ、問題にもしないわ。その点、おたくの係長さんは気をつけて。ものやわらかいけど、あっちとこっちで言うことが少し違うの。それから彼、几帳面《きちようめん》が好きだわ。欠勤《けつきん》の連絡なんか、早目に忘れずにしたほうがいいと思うわ」  何年かたって忘年会《ぼうねんかい》のあと、酔った彼女を車で送って行ったことがあったっけ。苦しそうだったので背中をさすってやったのだが、突然身を起こした。眼が怖《こわ》いほど血走《ちばし》っていた。 「抱いて」 「…………」 「お願い。一度でいいの」  賢《かしこ》い女が、ああも簡単に情けない姿をさらすなんて……。長くは見ていられない。お世話になった御礼の気持ちも少しあった。  だが、そのあと四、五回つきあってしまったのは、御礼のうちかどうか。彼女もまだ結婚をしていない。藁人形は彼女の趣味だろうか。  若いうちは、ただ女が抱きたかった。犯《おか》してでも抱きたかった。そんなときに「さあ、どうぞ」と身を投げ出されたらとても耐えられない。  少し慣れてくると、今度はいろいろな女と肉体関係のあることが得意だった。けっして人に吹聴《ふいちよう》したわけではないけれど——たまには自慢話をしたこともあったけれど、なによりも大勢の女と肉体を交《まじ》えていることが楽しくもあり自己満足の種にもなった。  愛とはおよそ縁遠いものを愛のオブラートにくるんであちこちに配っていた。あの女、この女……まるで節操《せつそう》がない。悪意はなかったが、恨みをかっても仕方ない。さんざん遊んだあとで、いけしゃあしゃあと結婚式を挙げ、 「はい、今度はこの女と幸福になります」  そう告げたら怒りたくなる人もいるだろう、どこかに藁人形を作る人がいても不思議はない。少しは反省しなくちゃあ。少しどころではないか……。まあ、今まではやむをえなかった。若さというものは、たやすく愚《おろ》かしさと手を結んでしまうものだ。  ——人の心がわからなかった——  今ごろ心の中で手を合わせて謝《あやま》ってみたところで、女たちは許してくれるものかどうか。英恵や藤川さんはどんな気持ちで結婚のニュースを聞いただろうか。  ここ一、二か月の華やいだ気分の中で忘れていた、いくつかの悔恨《かいこん》が——ぼんやりとした悔恨が、心に昇って来る。チラチラと写真が眼の端《はし》に映るたびに……。 「ビールに缶ジュース、おつまみはいかがですか」  車内販売の娘がワゴンを押しながら呼び掛ける。  金太郎みたいな顔。化粧《けしよう》も下手《へた》くそ。器量はよくないが、性格のよさそうな娘。この娘にも気がかりな恋があるのだろうか。  聡子が一番よい結婚相手かどうかわからない。だが、いったんふんぎりをつけた以上、聡子の気持ちをよく考えて平穏《へいおん》な家庭を作ろう。聡子のためだけではなく、なによりも自分のために。  ——いずれにしても今まではやり過ぎた。藁人形も無理はない。もう少し身を慎《つつし》もうか——  男は隣りの女の寝顔をうかがいながら、もう一度深々とタバコを喫《す》い、そして吐いた。  ——ひどい悪戯《いたずら》だわ——  聡子は眠ろうとしたが、眠れない。  昨夜、灯《あかり》を消したのは二時過ぎだった。ダブル・ベッドは人間の独占《どくせん》欲を満たしてくれる道具かもしれないが、安眠には向いていない。今朝も五時頃に目醒《めざ》めてしまった。幸福感とはべつに頭の中にチリチリと生理的な苛立《いらだ》ちが宿っている。  ——保之さんを恨んでいる女がいるのかしら——  その女は負け犬ね。  藁人形を作って、釘で打って、そのうえそれを写真に撮《と》って、変装《へんそう》して窓に貼りつけて……まるで子どもみたい。  ——馬鹿な女よ——  それはわかりきっている。取るにも足りないことだと思う。  気がかりと言えば、保之がそんな馬鹿な女にも興味を持ちかねないこと。おおいに持ちそうなこと。「好きよ」と言われれば、ちょいと傾いてしまう癖がありそうなこと……。  たしかに悪い男じゃない。だれにでも好かれる。ただその�だれにでも�の中に、女の数が多過ぎる。そんな不安がある。  一応ハンサム。顔色の浅黒さも男らしいし、性格が明るい。頭もわるくないし、仕事もよくできる。  ——まあ、満足しているわ——  いろいろ寄り道をしたけれど、結局一番いい相手と結ばれたのではないかしら。保之に「結婚してくれない?」と、はにかむように言われたときは真実うれしかった。多分《たぶん》そう来るだろうとは予想していたけれど……。  ——私だって、そう悪いほうじゃないのよ——  わがことながら周囲を見まわして�自分よりはるかに上�と感ずる女に会ったためしがない。違うかしら……。本当によくもてたんだから。  ——でも、あの人、女だったかしら—— �あの人�というのは、窓に写真を貼った人……。惜しいことに、よく見なかった。男とも女ともわからない。男かもしれない。  恨まれているのは、保之のほうだとばかり思っていたが、ゆっくり考えてみれば、そうとは言いきれまい。  ——梶《かじ》さんは怒っているのかしら——  五年来のおつきあい。でも許したのは唇《くちびる》だけ。当たり前ね。そう安売りはできないわ。 「いつまでも待つよ。いろいろやってみて�やっぱりあそこだ�と思ったら、僕のドアを叩《たた》いてくれ」だって。あの人、他の縁談《えんだん》をずいぶん断わったみたい……。  そう、お言葉《ことば》通り利用させていただいたわ。最後の救命具《きゆうめいぐ》……。  梶さんと結婚する気は金輪際《こんりんざい》なかったけれど、ああいう人がいてくれると、落ち込んだときに便利なのよね。元気づけになって。ビタミン剤《ざい》くらいの効果はあったわ。 「結婚することにしたの」  そう言ったら、あの人、膝《ひざ》がガクンと揺れちゃったりして。軽いめまいでも起こしたんじゃないかしら。おいしい物をずいぶんご馳走《ちそう》してもらったし、いろんなところへ連れてってもらった。お母さんと妹さんがいて、そんなにお財布《さいふ》は重くなかったはずだけど……。  ——悪かったなあ——  申し訳《わけ》なく思っています。藁人形なんか打ちつけないでください。まさかとは思うけれど、梶さんにはちょっとめめしいところがあったし。ありうるかも……。  ——東京駅に来るのは、当人とは限らないわ——  それならば、信彦《のぶひこ》というケースも考えられる。一時は相思相愛《そうしそうあい》のカップル。だれもが将来はきっと一緒《いつしよ》になるんだと思っていたわ。今度の結婚通知を出したときにも、 「あら、信彦さんとじゃなかったの?」  なんて、不思議そうな顔をしていた人がいたくらい。思い出はいっぱいあるけど、親たちを欺《だま》して、北海道旅行をしたときが一番楽しかった。  ——彼ったら、どうしてもあそこにキスさせてほしい——  って……。厭《いや》らしい。でも、すてき。それからは癖になっちゃって……。保之はまだしてくれないけれど。  信彦は男のくせにピアノがうまいの。白くて細い指が鍵盤《けんばん》の上を走ると、とてもセクシイだったわ。どこか病的な印象があったけど。 「知らないの? あの人、高校時代にノイローゼで病院に入っていたことがあるのよ。お祖父《じい》さんも精神病のはずだったし」  そう聞かされて調べてみたら、その通り。  そういう病歴があるんじゃヤッパリねえ。 「もうすっかり癒《なお》ったんです。あなたがいなくなったら、あいつはどうなるか」  お父様が家にまでやってきて説得《せつとく》されたけど、女に振られたくらいで再発のおそれがあるんじゃ余計危なっかしいじゃない。何度連絡を寄こしても断固《だんこ》拒否。そしたら、案の定また頭がおかしくなってしまって……。  自殺の知らせを聞いたときも、べつにそれほどショックじゃなかった。�ああ、そう�って感じ。  ——あたしって冷たいのかな——  お葬式にも行かなかったし。  今になって考えてみれば、もう少しやさしくしてあげればよかった。逃げ出すのに精いっぱいで、相手の気持ちまで考えてあげるゆとりがなかったのね。  ——彼のご両親は私のこと恨んでいるかしら——  たった一人の男の子どもだったし。呪い殺してやりたいくらい思った時期はあるかもねえ。  若い時代って�男を振るのも女の勲章《くんしよう》�みたいなところがあるのよね。ちょっとちょっかいを出すと、男の子が尻尾《しつぽ》を振って飛んで来るでしょ。そこで、ツンと知らん顔をするの。それがおもしろくて……。  竹田《たけだ》君なんか、いい気分でからかっちゃったけど……。でもね、彼には多少のお詫《わ》びの意味もあって、寝てあげたんだから……。  ——私、何人の男を知っているのかしら——  われながら、ふ・し・だ・ら。すぐに数を思い出せないんだから。  えーと、六人プラス一かしら。  最後の�一�は、霧《きり》ケ峰《みね》へ美佐子《みさこ》たちと一緒に行ったときのアバンチュール。ゆきずりの恋。なんという名前の人だったか。顔も思い出せない。  そう言えば、結婚式のとき美佐子が寄ってきて、 「純白の衣裳《いしよう》は純潔のしるしなんですって。ウフフフ、大丈夫?」  だって。  ——遊び過ぎちゃったかなあ——  保之には、少し悪いような気もするわね。中古も中古、大中古。申し訳ありません。これからはもうふしだらにはなりません。いい奥さんになるように努力します……。  ——あら、きれい。水がたくさんあって。浜名《はまな》湖かしら——  東京から名古屋まで、二人はおおむね寡黙《かもく》だった。  聡子はほとんど顔の上にハンケチを掛け続けていたし、保之は三十分ほどまどろんだ。 「なんか飲むかい?」 「いらないわ。今、どのへん?」 「豊橋《とよはし》を過ぎたところかな」  会話はすぐに途絶《とだ》えてしまう。  陽《ひ》が射《さ》しているわけでもないのに二人の窓にはカーテンが引いてある。うっとうしい。カーテンの陰からは相変らず黒ずんだ写真が二人を監視《かんし》している。  ——早く名古屋に着かないかいな——  ——風にでも吹き飛ばされればいいのに——  二人とも写真のことを忘れられない。さりとて、諍《いさか》いあうのは、みすみす犯人の術中に陥《おちい》るようで口惜《くちお》しい。藪蛇《やぶへび》にもなりかねない。たかが藁人形の写真ではないか。楽しかるべき新婚旅行の第一歩をこんなものに乱されてなるものか。  そうは思いながら無視することができない。意識のどこかにへばりついている。忘れようとしても、すぐに窓の外から覗《のぞ》いているのが眼に入る。  ——だれだろう——  ——だれかしら——  ——君、心当たりがないのか——  ——あなた、覚えがあるでしょ——  おたがいに相手をさぐっている。  しかし、それ以上にわれとわが身の過去を振り返っている。  ——結構《けつこう》罪つくりをしたからなあ——  ——もう少し思いやりを持つべきだったわ——  左手の窓に名古屋球場が見えた。ビルの背が次第に高くなり、列車内のアナウンスメントが間もなく名古屋に到着することを告げた。 「ようやく……」 「本当」  ドアが開くのを待って保之はホームに躍《おど》り出た。  写真はガム・テープでガラスに貼りつけてある。周囲の訝《いぶか》しげな視線を意識しながら手早く剥《は》がして車内へ戻った。 「いやらしいやっちゃ」  と笑いかければ、聡子も、 「なんのつもりかしら」  と笑う。  カーテンを払い、なんの邪魔《じやま》物もない窓を見ると、少し肩の荷《に》がおりたような気がする。  列車が動き始めた。  保之が乱暴に折り畳《たた》んだ写真をなにげなく眺めたのはそのときだった。 「…………」  怪訝《けげん》な気配《けはい》が流れる。 「どうしたの?」  女が男の横顔をうかがう。  ——写真が変わっている——  黒い背景。白く浮き出した藁の束。胸を貫く釘。だが、人形の裾《すそ》のほうが少しさっきと違っている。  ——初めからこうだったろうか——  聡子も、男の視線の赴《おもむ》く先に眼を落とした。 「…………」  女も小首を傾《かし》げた。  ——あら、こんな写真だったかしら——  もともと裾のほうは少しぼやけていた。でも、たしかに藁人形だと思っていたのに……。  東京駅で見たときが錯覚《さつかく》だったのだろうか。いったんカーテンを閉じてしまってからは、二人とも写真の存在だけを意識して、ろくに写真を見なかった。  ——だれかが貼り替えたのかな——  そんなことができるはずもない。  ——途中で変わったのかしら——  そう考えるよりほかにない。  たしか東京駅では�大�の字を描いていたはずの人形が、いつのまにか足を閉じて�十�の字になっている。写真の下半分は黒ずんでいるが、白いシルエットは�十�の形にしか見えない。  しかも、その形は、もはや人形と見ることさえむつかしい。  ——これ人形じゃないわ——  ——隠《かく》れ切支丹《キリシタン》は、人形に見せかけて藁の十字架《じゆうじか》を作ったらしいけど——  男は思った。  ——東京から名古屋まで、俺はずっと心のうちで自分の過去の告白をしていたんだ——  女も思った。  ——なんだか十字架の前で懺悔《ざんげ》でもしていたみたい——  二人は顔を見合わせたが、その瞬間……二人はあとで告白したのだが、周囲になにかしら神の啓示《けいじ》が漂っているのを感じたとか……。  写真を貼ったのはだれだろう。  それを詮索《せんさく》する必要はもうあるまい。事実、その後いつまでたっても、その人をつきとめることはできなかった。  新婚旅行を終えた二人は、結婚式を挙げた教会へ戻って、一部|始終《しじゆう》を神父《しんぷ》に報告し、これからは神を信じ敬虔《けいけん》な心で生きるよう神の前で誓《ちか》ったらしい。神父はことのいきさつを、この奇跡を遠くヴァチカンに報告したことだろう。  以来、神もご照覧《しようらん》あれ、二人は高輪《たかなわ》のマンションで仲むつまじく、操《みさお》を正しく暮らしている。  とはいえ、これはたった三か月前の話である。新婚夫婦が仲むつまじく操正しいのは、さして驚くに当たらない。  いつの日か、藁の十字架がふたたび呪い人形に変わらぬものではあるまい。 [#改ページ]   ありふれた誘拐《ゆうかい》 「御主人。ちょっとお待ちくださいな」  下北沢《しもきたざわ》駅から代田《だいた》の自宅へ帰る道筋《みちすじ》。銀行の前で辻占《つじうらな》いの男に声を掛けられ、西田英雄《にしだひでお》はつい足を停《と》めてしまった。  毎日通る道なのに、こんなところに占いが店を張っているとは気づかなかった。 「はあ?」 「お時間は取らせません。ここにお立ちになって」 「ええ……」 「失礼ながら、気掛かりな相が出ております」  占いなんかあまり信じていない。これまでに占ってもらったこともない。  同じ年頃の生まれだと、人はどうして同じ運勢《うんせい》をたどらなければならないのか。西田にはもうひとつ合点《がてん》が行かなかった。  立ち停まったのは、占い師の声を掛けるタイミングがよほどよかったからだろう。それとも人相|風体《ふうてい》がいかにも占い師らしく、なんとなく的中率が高そうに見えたからだったろうか。  ——ああ、そうか。やっぱり和美《かずみ》のことが気にかかっていたのかもしれない——  このところ独《ひと》りでぼんやり思案しているときには、いつも和美のことを考えている。  和美の白い体……こいつを考えるときは、とても楽しい。三十二歳だと言っていたが、女として一番おいしく熟《じゆく》しているときなのではあるまいか。妻の千代子《ちよこ》とはまるで違っている。同じ生き物とは思えない。  和美の骨は猫のように軟《やわ》らかい。抱《だ》き締《し》めると、腕の中でいかようにでも形を変えて撓《しな》う。愛撫《あいぶ》を深めるたびに匂《にお》うように燃えて行く。糸の声を引く。女体にあれほどの差異があるとは知らなかった。思い出すたびに頬《ほお》がゆるんでしまう。  ——だが、このまま無事《ぶじ》に続けて行けるかどうか——  それが心配だ。悪い予感がしていけない。  こちらの思案は、思いめぐらしてあまり愉快なしろものではない。だから西田はできるだけ考えないようにしている。  先月の連休には、 「中学時代の同級会があってな。幹事《かんじ》がぜひ出席してくれって言うから、まあ、仕方ない」  妻にはそう偽《いつわ》って、和美と一緒に渋川《しぶかわ》温泉へ出向いた。初めての二人旅だった。  待ち合せの場所で、  ——和美は本当に来るだろうか——  西田はまるで少年のように胸を弾《はず》ませて待ち続けた。その動悸《どうき》が今でも時折《ときおり》胸の中に甦《よみがえ》って来る。 「ごめんなさい、遅《おく》れちゃって」  人|混《ご》みの中から藤色《ふじいろ》のワンピースが翻《ひるがえ》って、それが世にもすばらしい旅の始まりだった。  二人だけの浴槽《よくそう》。念入りの愛撫《あいぶ》。夜から朝へと続いためくるめく情事《じようじ》……。あれ以来何度心に反芻《はんすう》してみたかわからない。  この世に男がいて、女がいて、その中の二人がたまたまめぐりあって、一夜の旅に出る。ただそれだけのことであれほどの愉楽《ゆらく》が手に入るとは……わがことながら信じられない。  だが、たしかにその通り。あの夜の歓喜《かんき》はまちがいなく現実だった。  そうならば何度でも味わってみたいと思うのも自然な感情だろう。  ——いつまで妻の眼をごま化せるか——  たちまち黒い思案が込みあげて来る。  千代子が知ったら、とてもただではすむまい。そのことは十数年の結婚生活でしみじみとわかっている。千代子の辞書の中には�浮気《うわき》�という文字はない。妻ある身が、ほかの女と関係を持つなど�絶対に許せないこと�であり、�あってはならないこと�は、そのまま彼女の頭の中では�ありえないこと�になってしまう。  千代子の父親は、小さな商店を一代のうちに従業員六、七十人の会社にまで育てあげた手腕家《しゆわんか》であったが、無類《むるい》の堅物《かたぶつ》で、この人の頭の中にも�女遊び�という文字はなかったらしい。  そんな父親の下で、千代子は男兄弟もなく育てられたものだから、世間の男がなにを考えているかまるでわからない。妹が一人いるが、この女の亭主《ていしゆ》もいたって生真面目《きまじめ》なほうで、多分女遊びなどしたこともあるまい。千代子の一族の中では、浮気は殺人と同じくらいの罪悪《ざいあく》なのだ。自分の夫が殺人者であると想像するのがむつかしいのと同様に、千代子は夫の浮気を考えることがない。  ——もし露見《ろけん》したら、どうしよう——  和美を知ってこのかた西田はこの考えから離れられない。払っても払ってもヒョイと浮かんで来る。  快楽の瞬間にもこの思案が意地わるく込みあげて来て、喜びの何十パーセントかをたちまち削《そ》いでしまう。  ——今のところ千代子はなにも気づいていない。しかし、こんな楽しみがいつまでも続くものだろうか——  こうした不安が、占い師の前で足を停めた一番の理由だったのかもしれない。 「いくらですか、見料《けんりよう》は?」  根が用心深いほうだから、まずこれを尋ねた。 「お志《こころざし》で結構《けつこう》」  占い師はみごとな口髭《くちひげ》をたくわえているが、よく見ると思いのほか若い。三十前かな。髭がなければ、ずいぶん間のびした鼻《はな》の下だ。 「料金を先に言ってもらわないと……」 「では千円ほど頂戴《ちようだい》いたしましょうか」  西田が財布《さいふ》の中から千円札を抜いて手渡すと、男は、 「うむ」  と頷《うなず》いて、おもむろに筮竹《ぜいちく》を広げた。  ——馬鹿らしい——  占い師と別れた西田は、家に向かう道筋でも、家に帰って一|風呂《ふろ》浴びたその湯船《ゆぶね》の中でも、さらにまた布団《ふとん》に入ってからも、ずっと同じことを思い続けていた。  ——あの髭野郎め。せめて和美とのことについて、なにかこっちがうれしくなるようなことを言ってくれればいいものを——  千円の見料で占い師が語った内容は、どれもこれもありきたりのことばかりだった。 「女性関係は、多少|出費《しゆつぴ》があるでしょうが、しばらくは順調に進みますな。事業は、波あれど可もなく不可もなし。健康は胃腸|障害《しようがい》にご注意……」  週刊誌の占い欄《らん》でも見れば、みんな書いてありそうなことではないか。的中率が高そうだと踏んだのは、とんだ見当違いだったらしい。  あんまり月並みな台詞《せりふ》ばかりを並べるので、 「それだけ?」  と不満顔で尋ね返したら、 「いや、もう一つ。これを忘れてはいけないね」  と、鼻孔《びこう》を脹《ふく》らます。 「なんです?」 「誘拐《ゆうかい》にご用心」  やけに大袈裟《おおげさ》なことを言う。 「誘拐?」 「ここしばらく誘拐事件は起きていないが、忘れた頃《ころ》にまた起きるのが、この犯罪《はんざい》の特徴。犯人がどこであなたを狙《ねら》っているかわからない」 「フーン」  気のない声で告げて占い師に背を向けた。  ——同じ出鱈目《でたらめ》を言うのでも、もう少し信憑性《しんぴようせい》のあることを言えばいいのに——  まだまだ素人《しろうと》らしい。おおかたアメリカの小説でも読んで、キッドナッピングの記憶がなまなましく残っていたのだろう。むこうでははやっているそうだから。 「くれぐれもご用心」  背後の声には、振り返りもしなかった。  ——だれを誘拐するというのかいな——  薄笑いが浮かんでしまう。  占い師は、西田の年|恰好《かつこう》から判断して、当然家族持ちと判断したのだろう。幼い子どもがいると考えたのだろう。だが、おあいにくさま。女房《にようぼう》はいるが、子どもはいない。西田と千代子と、どちらに欠陥《けつかん》があるのかわからないが、とにかく子宝には恵まれなかった。  営利《えいり》誘拐というものは、まず子どもを狙うのが普通だろう。  それに……西田には、誘拐犯に狙われるほどの資産はない。一応�穂高《ほたか》産業�の社長の肩書を帯びているけれど、女房のほうがよほど大|株主《かぶぬし》だ。会社は千代子の親父が築《きず》いたもので、西田の立場は雇《やと》われ重役とそう大差はない。日常の裁量《さいりよう》は西田に委《ゆだ》ねられているが、大きな問題に関しては副社長の千代子のほうに実権がある。財布の紐《ひも》は千代子が握《にぎ》っている。そのうえ社内には義父の代からの大|番頭《ばんとう》めいた役員がいて、こいつらがやたらに千代子の肩を持つ。  ——どうして千代子なんかと結婚してしまったのか——  その理由は簡単に説明できる。  ——俺《おれ》が貧しかったから——  それ以外にはなにもない。  簡単に理由が答えられるのに、何度も同じ質問を心に問いかけてしまうのはなぜだろう?   それだけ後悔《こうかい》の度合いが強いから……。多分そうだな。  結婚前の西田はまったく|※[#「木+兌」、unicode68b2]《うだつ》のあがらないサラリーマンだった。私立大学を卒業して、ある官庁の外郭《がいかく》団体の、そのまた下請《したう》け企業に勤めていた。統計資料の編集をしたり出版をしたり……。仕事は退屈《たいくつ》だし、給料は安い。食うことぐらいはなんとかできたが、将来の見通しは薄暗闇《うすくらやみ》。四畳半一つの、古い民営アパートに暮らしていたのだが、どう足掻《あが》いてみてもこれ以上の生活は望めそうもない。係長になったところで四畳半が六畳に替わる程度のものだろう。 「資産家の娘さんなんだがねえ」  そんなとき、たまたま千代子との結婚話を持って来てくれた人がいた。 「ええ……」 「以前は文房具《ぶんぼうぐ》の小売り商だったんだがね。今は事務器にまで手を広げ、六、七十人の従業員を使って、かなり具合いよくやっている。娘さんが二人いて、その姉さんのほうの話なんだが……」 「婿《むこ》さんは厭《いや》だなあ」 「いや、むこうさんもそこまでは望んでいない。そのへんは割り切っているらしい」  くわしく聞いてみれば、悪い話ではなかった。  嫁さんと土地つきの家が手に入り、しかも従業員六、七十人の優良企業の幹部《かんぶ》候補として迎えられ……どう考えてみても、官庁の外郭団体の、そのまた下請け企業の平社員より悪いことはあるまい。  見合いの席で見た千代子も、さほどに厭味《いやみ》の女には映らなかった。 「わりといいんじゃないのかなあ」 「むこうさんも話を進めてほしいって……」 「いいですよ。お願いします」  話はトントン拍子《びようし》でまとまってしまった。  西田自身はあの頃なにを考えていたのだろうか?  とにかく希望のない毎日から抜け出せるのがうれしかった。なにをするにも財布と相談しなければいけないような生活にあきあきしていた。�穂高産業�へ転じて即座にもらった�管理課長�の肩書もわるくなかった……。  ゆっくり考えてみれば、おたがいにそれほど見当はずれの判断をしていたわけではあるまい。  最近になって西田はよく思う。  ——俺だってけっして駄目《だめ》な男ではないさ。たしかに気の弱いところはあるけれど、この性格は慎重《しんちよう》さとなって商売の上でプラスに作用することもある。仕事もけっして嫌いではない。論より証拠、千代子の父親が死んでからというもの、社長に推《お》され、大過《たいか》なく会社を経営しているではないか。千代子の父親が�この男に長女を嫁《とつ》がせよう�と考えたのは、まるっきり狂った判断ではなかった——と。  千代子は……そう、物差《ものさ》しの当てかたによっては格別悪い女ではないだろう。多少は認めてやらなくっちゃあ。  器量《きりよう》はけっしてよくないが、特に悪くもない。百人並べてきっかり五十番目くらいの見当。これをもし欠点と言うならば、世間の女は大半欠点持ちということになってしまう。  体は丈夫だし、浪費《ろうひ》はしない。会社の仕事をさせればテキパキと男まさりの采配《さいはい》をふるう。商売の見通しもしっかりしているし、そのうえいかがわしいことは大嫌い。道徳教育の鑑《かがみ》みたいに生真面目《きまじめ》な性格だ。どれひとつ取ってみても、非難を受ける筋合いはあるまい。  ただ西田としては……例《たと》えば健康について言うならば、妻とは、もう少し体が弱くてもいい……そう思うときがある。いや、健康なのは結構だが、千代子は骨太《ほねぶと》で、どことなく体つきがたくましく、女体《によたい》にとってなによりも大切な軟らかさを欠いている。色気とはほど遠い。ありあまるほどの健康を少し削《けず》って、そんな軟らかさが手に入るものならば、西田としては是非《ぜひ》ともそう願いたいところだ。  節約も美徳にちがいないが、千代子はろくに化粧《けしよう》もしないし、着るもののセンスはもともと持ち合わせていなかった。亭主としては、  ——おっ、今日はきれいだね——  などと、妻の姿に眼を見張る瞬間があってもいいと思うのだが、そんな体験はいつが最後だったろうか……。  それにも増して厄介《やつかい》なのは、あの精神の頑迷《がんめい》さ。世間の常識は一通りわきまえている女なのだが、男が妻以外の女と親しくなるという、あのどこにでもざらに転がっている事実に関して、千代子はその存在を認めない。  実際の話�穂高産業�では千代子の父以来の伝統で、女性関係で問題を起こした社員は出世が望めない。それとなく解雇《かいこ》された例もなくはなかった。下請けや出入りの商人など、この方面のトラブルが噂《うわさ》にのぼれば、たいてい取引きが停止されてしまう。 「それはプライバシイだろ。いくらなんでも時代|遅《おく》れだぜ」  と、西田はことあるごとに反論したが、千代子と、その重臣《じゆうしん》たちは頑《がん》として聞き入れない。 「お父さんのときからの方針よ。女のことで問題を起こす人は、心の芯《しん》が腐《くさ》っているの。けっして信用できない人よ」 「いくら親父《おやじ》さんの頃の方針だって、時代が変われば、少しずつ改良していかなければいかんさ」 「時代が変わっても人の心は変わらないわ。あなた、このことになると、いつも弁護するのね。自分の中によこしまな考えがあるからでしょ。プライバシイなんて、恰好《かつこう》いいこと言ってるけど」  こめかみがピリピリと震《ふる》え始めるのだから、あまり弁護をしては剣呑《けんのん》である。藪蛇《やぶへび》にもなりかねない。  もう少し融通《ゆうずう》をきかせてもいいだろうに……。  詰《つ》まるところ、西田と千代子とは、人間のタイプが違うのだろう。世界の見方が違うのだろう。  結婚の話が持ち込まれたときに、そのことに気づかなかったのが愚かだった。  ——人生はそういいことずくめじゃいかないさ。なんの心配もなく毎日の生活ができるだけで上々——  と、西田もつい先日までは、なかばあきらめて自分を説得し続けてきたのだが、和美を知って心の底にくすぶっているものが一気に吹きあげて来た。  これまでにも西田は出張の先々でゆきずりの女を抱くような、その程度の遊びならいくらでも経験があった。そんな方法で心の鬱積《うつせき》を解消していた、と言ってもよかろう。  もちろんこれだって千代子が知れば一大事なのだが、さいわい露見することは一度もなかった。  西田も慎重にことを運んだし、このくらいの遊びなら充分に隠しおおせるものだ。  だが……畢竟《ひつきよう》、旅先の女を抱いてみたところで、魂《たましい》を揺すぶられるほど楽しいものではない。どんなに楽しくても、ただの閑《ひま》つぶし……。それだけのこと。�この世にこんな快楽があったのか�と、今までの人生をしみじみ悔《くや》むほどのことはない。  だから、これまではさほど深く思い悩むこともなかったのだが、和美との関係はそのへんの事情がおおいに違っている。  初めて会ったのは新宿のクラブだった。  西田は当然のことながらそんなところへはほとんど足を踏み入れない。田舎《いなか》の中学で一緒《いつしよ》だった男が、 「西田さん、たまには命の洗濯《せんたく》でもしなさいよ」  と、無理に引き込んだ。  辻村《つじむら》と言い、夜の盛り場ではなかなか遊び慣れているようだ。  どのホステスも美しかったが、とりわけ西田の隣りにすわった女が好みに適《かな》った。 「和美です。よろしく」  なにを話したか覚えていない。  お客とホステスが交《か》わす、たあいのないおしゃべり、まあ、そんなところだったろう。  ——若くはないな——  店には二十歳そこそこくらいの様子の女もたくさんいる。その中にあって和美は、成熟《せいじゆく》した女の色気があるし、客あしらいも慣れている。若さは一つの魅力《みりよく》にはちがいないが、西田には少し眩《まぶ》し過ぎる。和美くらいの年齢がほどよく感じられた。 「いくつくらい」 「ウフフ、いくつに見えます?」 「二十七、八くらいかな」 「そのくらいならうれしいわ」  と、軽くいなす。 「本当は三十一よ」  正直な女なのかもしれない。  この店には長いのか。 「ううん。一年と少し……」  店にいたのは一時間足らずだったろうか。  外に出たところで辻村が、 「たまにはいいでしょう」  と覗《のぞ》き込む。 「まあね」 「結構《けつこう》仲よさそうに話していたじゃないですか」 「そうかなあ」 「でも、あの子はちょっと危ない」  辻村は顎《あご》をスルリと撫《な》でて言う。 「へえー、どうして?」 「いや、理由はないけど、なんとなく。割り切って遊ぶにはいい相手だろうけど……」  西田の隣りには、もう一人あずさという名のホステスがすわっていて、この女は大口を開けてゲラゲラ笑うし、話すことはきわどいし、辻村はこちらの女のことを言ったのかもしれない。  ——いずれにせよ、俺には関係のないことだ——  おもしろい体験ではあったが、好んで深入りしようとは思わなかった。  三日たったら�一橋《ひとつばし》和美�から暑中見舞の葉書が届いた。宛《あ》て書《がき》には、不充分な住所に続いて�西田社長様�と記してある。名刺を置いて来たはずもないし……女は多分辻村に会社の名前とありかを聞き、あとは電話帳ででも調べたのだろうと理解した。  たとえ暑中見舞とはいえ会社に葉書を寄こすのは厄介なことになりかねない。今日はさいわいに千代子の眼に触《ふ》れなかったが……。  葉書の文字は、なかなかの達筆《たつぴつ》である。人柄《ひとがら》までちょいと上等に見えて来る。  ——熱心なものだな——  和美の顔がぼんやりと浮かんだ。あの夜、店の外まで送って来て、 「また来てくださいね」 「ああ」 「ああじゃ駄目《だめ》。かならず、かならず来て。忘れないでくださいね。約束よ」  リップ・サービスとは思えないほど真剣な口調《くちよう》で告げていたっけが……。  ——少しは本気の部分もあったのかもしれない——  本来ならそのまま忘れてしまう関係だったのだろうが、驚いたことにそれから一か月たって新幹線の中で偶然《ぐうぜん》和美にめぐりあった。  ——神様もなかなか味な悪戯《いたずら》をやるものだ——  と思う。  列車が名古屋駅を出て間もなくのこと。和美は名古屋で乗車して、自由席のある車両に向かって歩いていたのではなかったか。  京都で乗った西田は夕刊をすっかり読み終わり、通路の人の動きを眺《なが》めていた。  ——いい女だな——  ——和美に似ているな——  ——いや、当人だ——  三つの思案がゆっくりと脳裏《のうり》を駈《か》け抜けたように思う。  女もすぐに気がついて、 「あ、社長さん」  と、親しげに叫び、 「ここあいてますの?」  答えも聞かぬうちにもう隣りの席に腰をおろしていた。 「来てくれなかったじゃない」  視線は恨《うら》むように流れる。 「うん、いろいろ忙《いそが》しくて……」 「嘘《うそ》。初めっから来るつもりがなかったんでしょ」 「そんなこともないが……葉書をどうもありがとう」 「届きましたあ?」 「うん。�西田社長様�はおかしいな」 「だって名前を教えてくれないんですもん」  すねるような動作のたびごとに女の膝《ひざ》が西田の腿《もも》をくすぐる。肉の軟らかさが伝わって来る。 「辻村さんは、よく現われるのか?」 「月に一、二度くらいかしら。でも、わからない。あそこ、もう罷《や》めてしまったんです」 「店を? どうして」 「いろいろゴタゴタがあって……」 「今は?」 「ちょっとお休み」 「いい身分だ」 「そんなことないわ」  窓の外に浜名湖《はまなこ》が見えた。 「名古屋へは?」 「ちょっと用があって……」  とりとめもない話を交わしているうちに車中の二時間が過ぎた。女はすっかりうち解けている。まるで古くからの知り合いのように。  東京に着いたのは夕刻の七時近く。皇居《こうきよ》の黒い樹々《きぎ》の上に茜色《あかねいろ》の雲が散っていた。 「お時間ありませんの?」 「うん?」 「ご飯をご馳走《ちそう》して」 「いいよ」 「うれしいっ」  と無邪気《むじやき》にすがりつく。  神田の割烹《かつぽう》店へ車を走らせた。  西田はほとんど酒を飲まない。二本の銚子《ちようし》はあらかた和美が空《から》にした。 「どうする?」  店を出てもいっこうに帰るそぶりを示さない女に西田が尋ねた。 「どこかへ連れてって」 「どこへ?」 「酔っちゃった」 「…………」 「どこかで休ませて」  和美は細く訴える。  男の胸が鳴った。  西田は車を停め、とりあえず、 「新宿」  と告げた。  盛《さか》り場の付近に男と女を休ませるホテルがあるのは知っていた。利用したことはなかったが、その程度の知識は持っている。  車を走らせているうちに、四谷界隈《よつやかいわい》にもそうした静かな宿があるのを思い出した。あそこのほうが入りやすそうだ。 「運転手さん、四谷三丁目を右へ曲がってくれないかな」  和美は眼を閉じ、体を西田に預けている。 「ここだ、ここだ」  支えるようにしてホテルのドアをくぐり、部屋《へや》へ運んだ。  和美は泳ぐような動作で襖《ふすま》をあけ、朱色《しゆいろ》の寝具の上に身を横たえた。  ——さて、どうしようか——  西田は上着を脱ぎ、女のそばにすわると、女は手を伸ばして西田に抱きつく。それほど酔ってはいない……。  唇《くちびる》が重なった。女の匂いが鼻《はな》を刺す。 「脱がせて」  どこをどう解いていいのかわからない。女の手の案内を追いながら一つ一つボタンをはずし、ジッパーをおろした。  白い肌《はだ》だった。  形のよい乳房だった。  西田も手早く服を脱いで布団《ふとん》の下に滑《すべ》り込む。裸《はだか》と裸の感触が心地よい。  それからは無我夢中だった。  糸を手繰《たぐ》るように一つ一つの感触を思い出して実感したのは、むしろ和美と別れてからのことだったろう。  あれほど感じやすい女がいるとは知らなかった。西田の愛撫《あいぶ》を受けて女はどこまでもとめどなく官能の海の深みへと落ちて行った。�もうこれが最後�と思った次の瞬間に、女はさらに深い歓《よろこ》びへと流されて行く……。  その歓びに誘われ、西田自身も今までにただの一度も味わったことのない境地へ引き込まれてしまう。狂うほどに乱れる女が、男の征服《せいふく》欲を心地よく満たしてくれた。 「またお会いできるかしら?」 「ああ、いいよ」  一瞬、妻の顔を思い出したが、西田の首は迷うより先にしっかりと頷《うなず》いていた。  こうして秘密の関係が始まった。  月に一、二度会って体を重ねる。そのたびに新しい興奮が西田の胸を貫く。  間もなく和美は新宿の新しいクラブに勤《つと》め始めたが、西田は店にはほとんど顔を出さなかった。妻の眼を恐れてのことだったが、酒を飲まない西田には酒場はさほど居心地のいい場所ではない。和美もしつこくは西田を誘わなかった。  その代り西田は和美と会うたびになにほどかの小遣《こづか》いを渡した。 「店のほうへは仕事が忙しくてあんまり行けないから……」 「すみません」  初めは恐縮《きようしゆく》して受け取っていた和美だったが、回を重ねるうちに西田の与えるものとはべつに適当な名目《めいもく》をつけてお金をせびるようになった。 「お洋服がほしいの」 「うん」 「いいでしょ」 「…………」  そのくらいのおねだりなら都合がつかないこともない。  ——あれだけの体を抱けるなら——  と、納得《なつとく》することができる。  ありていに言えば、西田の不安はただ一つ、この情事が千代子に知れることだけ……。  ——なんとかならんのかなあ——  こんなに激しい快楽があるにもかかわらず、それを賞味するのにいつもビクビクおびえていなければならない。見つかる日までおびえ続けなければいけない。それがいかにも情けない。それを思うと、やりきれないほどの絶望感が心の中に重くわだかまる。  いつ露見するかわからない。だが、女を抱かずにはいられない。  渋川温泉に誘ったのは、もちろん西田のほうである。  あの夜、和美は白い体を蛇《へび》のようにのた打たせて、いくどもいくども西田を歓びの頂上へと誘ってくれた。  あれはまちがいなく一生の記憶に残る最高の旅だったが……そう、気がかりなことが一つあった。  渋川からの帰り道、列車が大宮《おおみや》駅を過ぎるのをはすかいに見ながら和美が言った。 「少しまとまったお金がほしいの」 「いくらくらい?」  和美はすぐには答えず膝《ひざ》の上のハンケチを折り畳《たた》んでいたが、 「いつまでも人に雇われているわけにはいかないの。自分でお店を持ちたいわ」  そんな話は前にも聞いたことがある。  和美も三十二歳になったろう。独立を考えてもいい時期だろう。 「だから、いくらくらい?」 「一千万くらい。五百万でもいいわ。もちろんお借りするのよ」 「大金だな」 「ええ。駄目?」  和美の表情は�そのくらい、当然でしょ�と告げている。  当然かもしれない。そうではないかもしれない。男と女の、この種の金額に相場《そうば》はない。  しかし、千代子の眼をかすめてそれだけの金額を捻出《ねんしゆつ》するのはむつかしい。経理《けいり》のことはむしろ西田より千代子のほうが明るいのだから。  それに……和美という女をもう一つ信頼できないところがある。惚《ほ》れてることはたしかに惚れているのだが、どこかわからないところがある。奇妙な冗談《じようだん》を言ってケラケラ笑い、いつも陽気に振る舞っているが、どこかにぼんやりと暗いところがある。  答えは�ノウ�と決まっていたが、西田は一応考えたあとで、 「むつかしいな」  と告げた。 「そんなこと言わないで。どうしても入用なの……とてもいい店で……」  和美は今、自分が買おうとしている店がどれほどすばらしい条件か、目を輝かせて説明した。  列車が上野《うえの》に着くときには、 「少し考えさせてくれ」  いくぶん譲歩《じようほ》した答えを告げるより仕方なかった。 「誘拐にご用心」  へっぽこ占い師に言われた言葉が奇妙に耳の奥に残っていた。  あの夜以来、家に帰って布団に潜《もぐ》り込んでも、そのことが突然わけもなく心にのぼって来る。今夜もまた思い出した。  ——どうして気になるのかなあ——  千代子は隣りの布団で軽い寝息をたてている。健康な女は眠りにつくのも早い。  ——最後に妻を抱いたのはいつだったか——  二か月前か、三か月前か、思い出すこともできない。  もう子どもを持つことはあきらめている。  ——待てよ——  急に連想が広がった。  誘拐されるのは、なにも子どもばかりとは限らない。アメリカあたりでは結構大人が誘拐されているじゃないか。  ——もし千代子が誘拐されたら—— �誘拐�という言葉が気にかかるのは、心の深いところでそれを考えていたからではあるまいか。  ありそうもないことだが、絶対にないとは言いきれない。どの道、眠りの前の思案は愚かな妄想《もうそう》に満ち満ちているものだ。  世間は不景気《ふけいき》だというのに�穂高産業�の業績はすこぶる順調に伸びている。資産内容も利益も二重丸の好成績。なにかの拍子で凶悪《きようあく》犯が眼をつけるかもしれない。  あまり愉快な想像ではないけれど、部分的には楽しいところもある。  夜遅くなっても千代子が帰らない。行方がわからない……。  リリリーン。突然、為体《えたい》の知れない電話がかかって来る。 「奥さんを預かっている。一千万円を用意しろ。警察に知らせたら命はないぞ」  そんなところかな。  いくらなんでも一千万円じゃ安過ぎるか。家|屋敷《やしき》を売ったって二、三億円にはなるのだから……。それにあまり安値をつけられてはかえって不都合だ。まあ、一億円くらい……。  ——このときの応対がむつかしいぞ——  やはり警察に連絡《れんらく》するよりほかにあるまい。  一億円はなんとか用意することができるだろう。まずなによりも人質《ひとじち》を安全に取り戻すこと、これがこの手の事件の鉄則《てつそく》になっているようだ。  だが、千代子は子どもじゃない。身代金《みのしろきん》が取れる取れないにかかわらず犯人たちは千代子を生きたまま返すような真似《まね》はするまい。大人が誘拐されたときは、まず殺されていると考えるのが常識だ。  ——かわいそうに——  まっ正直な女だ。生まれてこのかたおそらく悪いことなどほとんどしていないだろう。それを思うと、無惨《むざん》に殺されるのは、いくら想像の中とはいえちょっと気の毒《どく》だ。  ——まあ、しかし、想像するだけならいいか——  いくら凶悪犯でも千代子を裸にむいて犯《おか》すことはやるまい。願わくば、できるだけ手際《てぎわ》よく、ひと思いに殺してくれんことを……。  西田としては、いくぶんうろたえながらもできるだけ自然にことを運べばよい。それが得策《とくさく》だ。大人の人質は、十中八、九殺されてしまうのだから、下手《へた》な芝居《しばい》や細工をやって、あとで疑いを招くようなことをしてはいけない。  ただ、ひたすら救出に専念すること。  数日後、千代子は無惨な死体となって帰って来る。泣き崩《くず》れる夫。めめし過ぎるか。  一億円は……やっぱり一億円は取られないほうがいいなあ。千代子が死に、一億円は奪われず……。どうやらこのあたりから妄想は夢に繋《つな》がったらしい。  薄暗い倉庫《そうこ》の片隅《かたすみ》。千代子が柱に縛《しば》られている。だらしなく脚《あし》を開いている。太腿《ふともも》の奥が見え隠れしている。ああ見てはいけない。ガム・テープが口を覆《おお》っているので、千代子は声を出すことができない。  黒い影が近づいて来た。  どこかで見たような男だが、思い出せない。会計事務所の事務員。出入りの洗濯屋……。 「悪いけど死んでもらいます」  影は少年のように明るい声で言う。  ——いよいよ死ぬのかな——  縛られているのは千代子のはずなのに�死ぬのかな�と思っているのは西田自身である。奇妙と言えば奇妙だが、こんなこともあるのだろう。  いつかは死ぬと思っていた。  でも、こんなに早く死んでしまうとは考えていなかった。  ——死んだあとはどうなるのか——  黒い影の男が人質を確認するように顔を覗《のぞ》き込んだ。  激しい狼狽《ろうばい》が込みあげて来た。  ガム・テープを貼《は》った顔は、いつのまにか西田に変わっている。  ——いけない。殺されるのは俺だ——  さっきから夢を見ていると、ぼんやりと気づいていた。いよいよとなったら眼を醒《さ》ませばいいと思った。  ——逃げなくちゃあ——  眠りが途切れ、薄闇《うすやみ》の中で眼を開いた。枕元《まくらもと》の時計はさっき眠りについたときから十数分しかたっていない。ずいぶんと短いまどろみだったらしい。千代子は相変らず寝息をあげて眠っている。  ——馬鹿な——  どう考えてみても千代子が誘拐されるなんて考えにくい。誘拐の対象になる女は、せめて体重五十キロまでくらいではあるまいか。  千代子は優に六十キロを超えているだろう。  ——あの占い師、口から出まかせのことを言いやがって——  つまらないことを想像するのはもうよそう。どうせなら和美のことを考えよう。今のところ二人の関係はだれにも知られていないのだから。  和美はどんな恥ずかしい姿でも灯《あか》りの下に晒《さら》してくれる。ひそかな部分は何度眺めても見あきることがない。何度眺めてもはっきりと記憶することができない。  西田は眼の奥の闇に脳|味噌《みそ》の力を集中して女体のさまざまなイメージを捜《さが》し求めた。  それから半月たって……四谷のコーヒー店。  西田は人待ち顔で二杯目のコーヒーをすすっていた。  一時間待ったが、和美は現われない。今までに例のないことだった。  ——なにか事故でも——  そう思ったが、すぐに西田は手を振ってそんな推測を掻《か》き消した。  ——怒っているのだろうか——  多分そうだろう。  この前会ったとき、帰りがけに西田は和美に封筒《ふうとう》を渡した。 「なに、これ?」  触《さわ》ってみれば、現金が入っているとすぐにわかっただろう。 「会社も苦しくてね。多額のお金を貸すことはできないんだ」 「困るわ」 「貸すことはできないけど……これだけあげよう」  これは結婚して間もない頃、義父から習った処世術《しよせいじゆつ》だった。 「他人にお金を貸してはいけないよ。よくよく義理のある人から頼まれたときは、初めからその十分の一か二十分の一かのお金を包んでくれてやったほうが、まだいい」と……。  封筒の中の金は三十万円。  和美の言った金額の二十分の一よりさらに少ない。しかし、ただでこれだけの金がもらえるのなら�御《おん》の字�ではあるまいか。  和美は指先で封筒の厚みを計り、ハンドバッグに納《おさ》めたが、 「ありがとう」  と、ぶっきらぼうに呟《つぶや》いただけだった。  あのときは暗い歩道を踏んでいたので顔はよく見えなかったが、明らかに不満そうだった。  ——やはり五十万ほど包んだほうがよかっただろうか——  西田は気おくれを覚え、話題をそらすように心に浮かんだことをあわてて呟いた。 「占いって信ずるかい?」 「べつに」 「このあいだ占ってもらったら�誘拐にご用心�だと……」 「誘拐? ああ、そう。お金のない人は狙《ねら》われないわ」  和美の口調《くちよう》は�そんな占いを立てられるところをみると、きっとお金があるのでしょ�と告げているようにも響いた。 「当たりゃしないさ」 「…………」  和美はなにも答えずにタクシーを停め、 「一人で帰ります」  と乗り込んだ。 「来週の金曜日。六時。四谷の喫茶店で」  そう念を押したときには、たしかに車の中で頷《うなず》いていたはずだったが……。  西田は喫茶店のドアが開くたびに首をまわして新しい客を確かめた。  さらに三十分待っても和美は現われない。  本来なら今ごろはホテルで甘美な陶酔《とうすい》を貪《むさぼ》っているはずなのに……。  二時間待って腰をあげた。  ——和美と知りあってからもう半年の歳月が流れている。初めて抱き合ったときから数えても五か月がたっている。もう何度抱き合ったのか——  女が親しい男に借財《しやくざい》を申し出るのは世間に例のないことではあるまい。情婦に店を持たせている男はいくらでもいる。しっかり目算《もくさん》の立つ借金なら、ある程度考えてやるのが本当だったのかもしれない。  ——しかし危険だな——  千代子に見つからずにすむはずがあるまい。  ——千代子がポックリ死んでくれれば融通《ゆうずう》もできるのだが——  またしても奇妙な考えがのぼって来る。  罪のない千代子を頭の中とはいえ殺してしまうのはかわいそうだが、和美の白い体と引き替えなら仕方がない。  だが、肝心《かんじん》なことは、そう簡単に死んでくれそうもないことだ。  下北沢の駅を降りると、今夜もいつかの占い師が銀行のシャッターの前に店を出していた。 「はやっているかね」  からかい半分で声をかけた。 「ええ、ボチボチ。ご主人、お待ちくださいな。お時間は取らせません。気がかりな相が……」 「いいよ。この前、見てもらった」 「ああ、ああ」  ようやく気づいたらしい。間のびした声で言う。 「�誘拐にご用心�と言われた」 「そうでした、そうでした。依然《いぜん》としてご用心をされたほうがよろしいですよ」  いかにもそれらしく天眼鏡《てんがんきよう》を覗《のぞ》きながら言う。もう欺《だま》されるものか。 「お子様から眼を離さないように」 「おあいにくさま、子どもはいないんだ」  キョトンとしている占い師に背を向けて道を急いだ。 「ただいま」  千代子は居間でテレビ・ドラマを見ていた。 「早かったのね」  そう。振られて帰って来たからな。  ——この女はまだなにも気づいていないらしい——  案ずるより産むがやすし、という諺《ことわざ》もある。  あれこれと思い悩むこともあるまい。  西田は寝巻きに着替えて郵便《ゆうびん》物にさっと目を通した。マンションの広告。霊園《れいえん》の広告。山梨《やまなし》の友人からの手紙……。�南ガ丘中学同窓会�と印刷された封筒を見て、手が止まった。  それを懐《ふところ》に突っ込んで手洗いに立った。  和美と親しくなって間もない頃に、 「手紙なんか書くなよ。どうしても必要のときは、この封筒でな」  そう告げて、手元にあった同窓会名入りの封筒を和美に渡しておいた。 「…………」  中には案の定《じよう》、見覚えのある和美の字が並んでいる。 �待ちぼうけ、ある日せっせと野良《のら》かせぎ……そんな童謡《どうよう》がありましたよね。この手紙が着くのはいつかしら。四谷の喫茶店へは行きません。ちょっと都合がありまして……ウフフフ�  なにがおかしいのか、時折わけのわからない冗談《じようだん》を言って笑う癖のある女だ。  だが……これは冗談ではなさそうだ。  二枚目のレター・ペーパーには、水茎《みずくき》のあとも美しく滑《なめ》らかな筆致《ひつち》で厳粛《げんしゆく》な内容が記されていた。  西田は読み返した。何度も何度も。 �どうしてもお金が必要なの。かならず都合してくださいね。お願いします。占い師は当たっていたわ。誘拐にご用心……。あなたのお子さんをお預かりしております。お困《こま》りでしょ。何か月かあとに奥様にお目にかけましょうか�  たしかにこれは想像以上に厄介《やつかい》な誘拐事件になりそうだ。 角川文庫『待っている男』昭和61年6月10日初版発行             平成4年1月20日22版発行